フランス現代思想の人間と動物論の展開


はじめに


1.フランス現代思想における人間と動物の境界線をやります
2. ハイデガーの批判・継承という形で提示するためにデリダ、ドゥルーズ、アガンベンを比較検討

Ⅰハイデガーのユクスキュル解釈


1.三つのテーゼ


①石には世界がない
②動物は世界に貧しい(→ドゥルーズ)
③人間は世界形成的である(→デリダ)
・(2)→(3)…アガンベン

2.人間と動物の境界


(1)動物は世界が貧しい
・E.g.蜂の実験
蜜を吸っている蜂の腹を切ると、吸った蜜が流れ出る
→蜂はそれに気づかずに蜜を吸い続ける
→蜂は蜜に対して盲目的に囚われている(火に飛び入る蛾も同様)
➡️動物は特定の環境に囚われ、そこで耽溺することでしか振る舞えない(「放心」)
・動物には「本質的な震撼」が備わっている
本質的な震撼…一回きりの生
E.g.ダニの生涯
①太陽のあるほうに登り②木の枝で動物が通るのを待ち③血液を吸い、卵を産む
→ダニは一回きりの経験に障害のほとんどを捧げる
➡️一回性の経験の強烈さ
(2)人間は世界形成的である
「として構造」…人間に固有の構造、動物には欠如
ある存在者を存在者として関わることができる構造…他者なら他者として、花なら花として関わる可能性+言語、感覚的確信はこの構造に基づく

3.まとめ


・動物は自身の反応できるシグナル(蜂なら蜜、蛾なら火)に対して盲目的に振る舞い(「放心」)、シグナルそのもの「として」関わることはできない(=動物は言語を奪われている)+この貧しさにこそ「本質的な震撼」がある
・人間は他の存在者を「そうしたものとして」関わる可能性、「として構造」をもつが、「本質的な震撼」を経験することはできない

Ⅱデリダ


1.着目点:ハイデガーの両義性「動物は貧しいかつ豊か」

…動物は存在者にそのものとして関わることはできないが、「本質的な震撼」は経験可能
↔️「本質的な震撼」は人間に到達不可能
↔️豊といえど動物に否定的な評価を下していないとは言い難い

2.人間に固有の能力(=「として構造」)は果たして存在するのか


・人間固有の審級…伝統的にはデカルトのコギト、コジェーヴの闘争、ラカンのシニフィアンの主体
(1)ラカンにおける人間固有の能力…偽装の偽装
・動物は、生存の際に自分自身を環境に擬態させたりするがこれは第一のレベルにとどまる
・人間は、この上すなわち偽装そのものを操作して誠実なふりをしたり、隠していないふりをしたりして相手を撹乱させる(盗まれた手紙の大臣)
(2)痕跡の構造…いかなる動物の行動もそれを受け取る動物に対して何らかの効果を及ぼす
「痕跡を印づけた主体の能力如何にかかわらず、当の痕跡がになっていたとされる意図や意味を超えて、むしろそのイデア的同一性の抹消を介して、その不在の可能性を通じて痕跡は反復され、判読され、機能し続けるということが、そもそもの痕跡の構造なのである」(宮崎、2020、213頁)
「つねにおのれを抹消すること、つねにおのれを抹消することが痕跡の本領なのだ」(デリダ、2023、321頁)
:偽装と偽装の偽は判別不可能、痕跡の印付けは痕跡の抹消と分割不可能
→痕跡の構造上、人間が偽装を偽装として関わることのできるという力能を持ち得ない
(3)「ましてハイデッガーが、動物が「剥奪されている」[=欠落している]というとことのものを、果たして持っているのかどうか問う必要があるということでしょう」(デリダ、2023、382頁)
→人間は「として構造」を持ちえない
➡️ハイデガーの境界線を曖昧にしていくこと
「もちろん、動物は我々のようには、食べません、そもそも誰も同じ仕方では食べません。数々の構造的差異があるのです、同じ皿から食べるときでさえ…私が示唆したかったことは、…(中略)これらの差異はもはや、「それとして」と「それとしてではなく」のあいだの差異ではないということです」(デリダ、2023、381頁)
→逆に言えばハイデガーは人間中心主義から逃れきれていない。
「ハイデッガーのこの分析には、確かに程度の差異と縁を切るという利点がある。それは、人間中心主義を避けて構造の差異を尊重している。しかし彼の分析はいぜんとして、人間中心主義から守ると自称するそのものを介して、すなわち欠如や欠乏=剥奪というあの意味作用を介して人間の尺度を導入しなおすのを余儀なくされているのである。この人間の尺度は、人間中心的であり、…」(デリダ、2009、83頁)
➡️デリダは、痕跡という観点から人間と動物という二項対立を揺るがそうとする

Ⅲドゥルーズ


1.ダニへの言及


「彼(ユクスキュル)はこの生物(ダニ)を三つの情動から規定する。まず光に反応する情動(木の枝の先端までよしのぼる)、第二に嗅覚的な情動(哺乳動物が枝の下を通るときにその上に落下する)、第三に熱に反応する情動(毛がなく、熱の高い部位を探す)。広大な森に起こるさまざまなこと、そのすべてのなかにあってたった三つの情動から成り立っている世界。満腹してほどなく死んでゆくダニ、この動物の持つ触発される力は、こうして最高の強度閾、最低の強度閾をもつ。動物であれ人間であれ、その身体をそれがとりうる情動群から規定してゆくこうした研究にもとづいて、今日エトロジー(動物行動学)と呼ばれるものは築かれてきた。それは動物にも私たち人間にもそのまま通用する。とりうる情動を誰もあらかじめ知りはしないからだ」(ドゥルーズ、2002、240頁)。
→情動という地平では人間も動物も同じ、どちらも環境との関係の束
*情動…ハイデガーのいう「放心」の時に生ずる衝動の意味(e.g.蛾が光に飛び込む衝動)
↔️ハイデガーにはできなかった

2.動物への生成変化


(1)ダニの重要性…三つの情動しか成り立たないという単純性
「単純な動物から始めることだ。彼らは少数の情動しか持っておらず、私たちの世界にも、別の世界にも存在していない。彼らは、自らが裁断し、切り抜き、縫合するすべを知っている連合した世界とともに存在しているのだ。例えば、蜘蛛と蜘蛛の巣、シラミと頭、ダニと哺乳動物の皮膚の隅といったように。こうしたものは哲学的動物であって、ミネルヴァの鳥ではない」(ドゥルーズ、2011、105頁)
(2)情動と生成変化の関係
「太陽光のいかんにより、私たちにおける「快感あるいは苦痛、喜びあるいは悲しみ」は、増減するだろう。こうした持続的な(生成)変化が、「情動(affect)」である」(千葉(2017)、430頁)。
「情動とは生成変化のことである」(ドゥルーズ2010、198、199頁)
「私の「女性への生成変化」や「イソギンチャクへの生成変化」は、私が、女性やイソギンチャクの諸性質――および、それらを介しアプローチされうる他の事物の諸性質―と、多様に「関係relation, rapport」をなすことである」(千葉、2017、30頁)
(e.g.動物なら「群れ」の性質)
この諸性質への関係をなすことは、動物への生成変化においては放心
(3)ドゥルーズガタリは、特権的な中心からの逃走として生成変化を提唱
特権的な中心…白人男性、ハイデガーのいう「として構造」を持った人間や精神分析
例えば、ドゥルーズは『カフカ』の中で生成変化を精神分析に対抗するトピックとして提示される。脱中心化を目指す生成変化は以下のような順で変化することになる。白人男性→女性→動物→細胞→元素、細胞、知覚しえないもの。知覚しえないもの、分子への生成変化の中間地帯として動物が位置付けられている。
ドゥルーズの述べる生成変化論に情動を、ハイデガーのテーゼに照らし合わせるなら、「世界が貧しい(=情動をもつ)」ことが生成変化が可能なのであり、中心からの逸脱
➡️ドゥルーズは生成変化という形で「動物は世界が貧しい」というテーゼを肯定

Ⅳアガンベン


1.テーゼ②→③という移行の素描


(1)倦怠の第一の契機:閉ざされに開かれている
「「現存在」は、退屈することによって、現存在から拒まれている何かへと引き渡されるのであり、まさしく放心における動物のように露顕されざるものへと晒されているのである」(アガンベン、2004、116、117頁)。
「人間の倦怠も動物の放心もともに、もっとも本来的な身振りにおいては、閉ざされに開かれているのであり、執拗に拒まれているものに完全に譲り渡されているのである」(アガンベン、2004、117頁)
→バスの待ち時間にやることがあっても何もやる気になれないような状態は、動物と同様
(2)倦怠の第二の契機:閉ざされに開かれているという関係の宙吊り化
「深き倦怠の第二の本質的な特徴である宙吊りのまま保持されてあることとは、…根源的な可能化がその真価をあらわにしていくということに他ならない」(アガンベン、2004、121頁)
(3)アガンベンの解釈まとめ
動物的な放心という、物に盲目的に囚われてた状態から、この物との関係を宙吊りにすることによって、可能性が開かれる。この宙吊りにする能力を持つのが人間
:動物から人間への移行(=主体化)
「世界が人間に対して開かれるのは、生物とその抑止解除するものとの関係を遮断し無化するかぎりにおいてだからである」(同上、125頁)

2.ハイデガーの位置付け: 人類学機械


(1)ハイデガーもまたゾーエ→ビオスを用いている
「ハイデガーは、人類学機械が、人間と動物、開かれと開かれざるものとのあいだの闘争をたえず裁決し再編することによって、ひとつの人民に取っての歴史や運命をいまだになお生み出すことができると信じた最後の人物だったのである」(同上、132頁)
*人類学機械…人間の内部で人間を分節化することによって規定すること、生政治に一致
(2)ハイデガーは、ゾーエを否定することでビオスを達成するヘーゲル―コジェーヴの延長
…放心という動物的な状態を宙吊りにする能力
→人間が現れ、生を分割する過程が歴史(e.g.生政治ならドイツ人→ユダヤ人→回教徒への移行)
(3)アガンベンによれば人間でも動物でもないこぼれ落ちるもの、閾、残りものがある
→人間の宙吊りを宙吊りにする可能性、人類学機械への反駁

3.生政治あるいは哲学の反駁としての残りもの(『アウシュビッツの残りもの』)


(1)閾の重視
「アウシュビッツの残り者―証人たち―は、死者でもなければ、生き残ったものでもなく、沈んでしまった者でもなければ、救いあげられた者でもなく、かれらのあいだにあって残っているものである」(アガンベン、2001、221頁)
→西洋哲学はこの閾を無視してきた
:コジェーヴの否定、ハイデガーの宙吊りにする能力は人間と動物の蝶番として機能
→分離不可能にして分割されているから存在する閾によって生の分割(=生政治、人類学機械)を批判
「人間は人間の非―場所において、生物学的な生を生きている存在と言葉の間の不在の結合において生起する(ha logo[場所をもつ])のである」(同上、183頁)

まとめ


デリダ:痕跡の構造から人間の特権を切り崩し、人間と動物の境界を撹乱
ドゥルーズ:動物は世界に貧しいというテーゼを強調することで人間と動物の境界を転倒
アガンベン:人間と動物の移行を浮き彫りにした上で、還元されない閾によって反駁

課題


・自身の立場的にはドゥルーズとアガンベンの中間
・人間と動物の境界を生の分割として捉えるなら、生を分割する前の生について、単に生ているだけの生について考えることも可能
・ドゥルーズの「絶対的内在」?
…「たとえば、乳児たちはみな似たりよったりで、個体性をほとんどもたない。しかし彼らには、笑みひとつ、しぐさひとつ、しかめっつらひとつといった特異性があり、主体的性格とは無縁の出来事がある。純粋な力であり。諸々の痛みや弱さを通じた至福でさえあるひとつの内在的生が乳児たちを横切っている」(ドゥルーズ、2015、162頁)。

【参考文献】


アガンベン、ジョルジョ『アウシュビッツの残りもの—アルシーヴと証人』上村忠男、廣石正和訳、月曜社、2001年
――「絶対的内在」『現代思想』多賀健太郎訳、2002年、8月号
――『開かれ 人間と動物』岡田厚司、多賀健太郎訳、平凡社、2004年
――『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』高桑和巳訳、2003年
串田純一「脱抑止される生命の衝動たち―超越論的的な形而上学と生物の問題―」『現代思想』2009年、7月号、2002年、172―186頁
コジェーヴ、アレクサンドル『ヘーゲル読解入門―『精神現象学』を読む』上妻精、今野雅方訳、1987年
千葉雅也『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出書房新社、2017年
――「トランスアディクション」『現代思想』2009年、7月号、2002年、202-215頁
デリダ、ジャック『精神について』港道隆訳、平凡社、2009年
――『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』鵜飼哲訳、筑摩書房、2023年
ドゥルーズ、ジル『スピノザ―実践の哲学』平凡社、2002年
―『ディアローグ―ドゥルーズの思想』江川隆男、増田靖彦訳、河出書房新社、2011年
―『ドゥルーズ・コレクションⅠ』宇野邦一監修、河出書房新社、2015年
ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』宇野邦一、小沢秋広、田中敏彦、豊崎光一、宮林寛、守中高明訳、河出書房新社、2010年
檜垣立哉『生と権力の哲学』筑摩書房、2007年
フーコー、ミシェル『社会は防衛しなければならない』筑摩書房、2007年
フーコー、ミシェル「人間は死んだのか」根本美作子訳『ミシェル・フーコー思考集成 2 文学/言語/エピステモロジー』筑摩書房、2004年
宮崎裕助『ジャック・デリダ―死後の生を与える』岩波書店、2020年

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