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以下、本編の一部です。

小説『春が落ちる』

  葉月
 
 世間は何も知らないけれど、私だけは知っている。今、二千八百グラムの子供が私の膣から排出され、そして大きな産声を上げている事。そしてその子が、あの人の精子と私の卵子とが一緒になって生まれた新しい命だという事も。優越感がどうだとか、そういう事を言いたいんじゃない。ただこの子が私と彰の子だというのは間違いのない事実だ。私はただそれだけを知っていれば満足だった。
 霞んだ視界の先で、看護師に抱かれたその子供が何をもってしてか泣き続け、その泣き声が私の心をそっと優しく包むようで私は少し安心した後すぐに大きな幸福感に包まれる。自分にとって初めての子供、私と彰の初めての子供。何度もそう思った。視界が霞んだままどこを探しても彰の姿を見つける事が出来ない。ここにいるのは私と看護師と、今生まれてきたばかりのその子供だけだった。どこに行ってしまったのだろうと考えようとしてすぐに彼が一週間前から仕事で海外へ行っている事を思い出した。
「あ、……仕事か」
ふと洩れた言葉に看護師が怪訝な眼差しを向け、すぐ後に「元気な男の子ですよー」とその子供を抱いたまま私の顔の近くまで寄せてくれる。しわくちゃな目を閉じたままの顔が、これほど愛おしいと感じたのは初めてだった。その一瞬だけは、彰の事だって忘れて、ただ純粋に今目の前にいる裸のままの子供に愛を感じていた。
 例えばもっと純粋に喜んでみたいとも思う。純粋にこの子供に対する愛を持って、この先にきっと輝くであろう未来を見てみたいとも思う。擦れた視界が映し出しているのは、病院のベッドの上で寝たままの、汗で髪の毛を顔中に貼付けた私、そしてその私が見ているのは、病院の無機質で真っ白な天井だけだった。
 夏が終わり、肌に染み込むような涼しげな風が流れ始めたのは九月も終わりに差し掛かった頃だった。うだるような暑さの中私は履き慣れないヒールを履き、あちこちへと走り回り体中から溢れんばかりに出ていた汗を、今はもう懐かしく思う季節だった。夏なんてなくなってしまえばいいと思ってしまうくらいに大嫌いなはずなのに、夏がそろそろ顔を沈めようとする姿を見ると、なぜだか変に夏に愛着が湧いてくる。一年の内で唯一夏を良いと思える瞬間かもしれない。だけど秋がちゃんと姿を現してしまえば、そう思っていた事もすっかり忘れてしまっているくらいなのだから所詮大した思いではないのだろう。それから一年後、夏が顔を沈めようとする姿を見てまた同じような事を思う。そう思って、去年も同じような事を考えていたなんて思い出したりもするけど、一年も前の自分の感情に浸る程私は暇じゃない。
「今何してるの?」
と、いつだったか時間を共有した旧友に聞かれた時に、私は何と答えているだろうか。
「映画の宣伝」
箸で掴んだ枝豆を器用に口まで運ぶ最中に私はそう言った。
「え、どんな映画?」
「主人公の男の子が世界に立ち向かっていく映画」
「へー、題名は?」
「僕と世界の終わり」
「……知らないや」
別にマイナー過ぎる映画な訳ではない、ただ有名じゃないだけ。私が勤めている会社は映画の広報を主としていて、監督や出演者のインタビューを取りに行ったり、試写へ出向いたり、諸々のスケジュール調整だったり、やるべき事は山のようにある。例(たと)えそれが大きな配給会社が絡んでいたり、大々的なプロモーションをしている映画でなかったとしても。
 うちでは主にインディーズ映画を取り扱っていて、それこそ広告なんて出せる程の予算なんてないような所からの依頼が多い。インディーズ映画にこだわるのはうちの社長の方針であって、私もそんな姿勢に感銘を受けたのは事実だし、私自身インディーズ映画が好きだった。だからもちろん有名な映画でない事はなんの不満もないのだけれど、こうやって人に説明する時は、もう少し人が知っているような映画の広報をやっていればと思ったりもする。
 そしてこの旧友の恵子は映画なんてろくに知らない人間で、人に誘われなければ観に行こうとも思わないような人だ。そんな人にどう私の仕事を説明しろと言うのだ。
「ねえ、それよりさ」
恵子は右手に持った箸を無視したまま、私に視線を向けた。
「また飲みに行こうよ」
そう言った恵子の声は昔と何も変わっていない。ほんの少しだけ顔を流れる皺と、奇麗に着飾った身なりは昔の印象だって薄くしてしまうのに、その声がしっかりと昔のままである事に安心感を覚えた。
「うん、いいよ」
私はそう言って、恵子に笑顔を向けた。その笑顔を見て安心した恵子は、箸でたこわさびを器用に掴んでそれを口へと運んだ。
 今から十年前、恵子は私の後ろの席に座っていて、周りに誰一人友達のいない始まったばかりの高校生活で初めて声を掛けてきた。
「よろしくね」
今と変わらないその声と、まだあどけなさの残る、高校一年生にしては随分と子供のように見えるその女の子が私に嫌な程に輝かしい笑顔を向けてきたのだった。
「よ、よろしく」
少し躊躇いながらも、それでも声を掛けてくれた事に対してはとても嬉しく思っていたし、重く感じていた不安な気持ちが幾分拭えもした。
 最初はたまたま席が近いってだけの理由だったと思う。もし私の後ろに恵子が座っていなければ、恵子は私に声を掛けなかったと思うし、私でない誰かが恵子の前にいたとしたら、恵子はその子に声を掛けていたのではないだろうか。ただ恵子の前に座っていたのは私で、それは運命なんて大げさなものなんかではなく、ただの偶然というか、私たち二人が高橋という同じ苗字を持っていたというだけの事だった。恵子に取ってはそんなたまたま声を掛けた人、私にとってはたまたま声を掛けてきた人に過ぎなかった二人だけど、その後も良好な関係は続いて、結局高校生活三年間のほとんどを私は恵子と共にしていたのではないかと思う。クラス替えもなく、ずっと同じクラスであったのも理由の一つかもしれないけど、それよりも私と恵子は相性が良かったのだろう。だからもしかしたら、最初の席順が違ったとしてもいずれは仲良くなる二人だったのではないかと二年生になったばかりの頃に私はこっそりと考えてみたりした。もちろん恵子には言わなかったけど。そんなにも相性が合うって思っていた仲なのに、高校を卒業してしまえば随分とあっさり疎遠になってしまった。別に嫌いになった訳でもないし、会いたいと思う事もあった。だから疎遠になった理由を聞かれても〝なんとなく〟としか言えそうにない。そもそも理由がない訳で、じゃあ会いたい理由は?と聞かれてもそれにだって理由を与えるのが難しい気がする。要するに私たちはそういう関係だったのだろう。お互い意識し合わない関係というか、必要、不必要などという前に、隣にいたとしたらそれは当たり前だし、隣にいないとしてもそれが当たり前になってしまうのだ。
 そんな恵子から高校を卒業して以来、八年振りに連絡があった。二十六歳になったばかりの八年と言うのはまだまだ長い年月であるはずなのに、その急な連絡にも私が臆する事はなかったし、変に驚きを抱く事もない。恵子だって八年という年月を空けている割には「最近どう?」という随分と素っ気ない一文のメールを送ってくるだけなのだ。ある意味出来上がっている関係というか、それが良いのか悪いのかの判別は出来ないけど、私と恵子がそれでよければいいのではないかと思う。
「恵子は?」
私たちは今当たり前のようにお酒を挟みながら会話をしているけど、恵子とお酒を交えるのなんて今日が初めてな訳で、もちろん酔っぱらった恵子だって見た事がないし、酔っぱらった私だって見せた事がない。私は自分のお酒の量を弁えているつもりだし、泥酔して迷惑を掛けるなんてないと思うけど、恵子はもしかしたらかなりの酒乱かもしれない。そんな風に考えてみるとあれだけ知っていると思っていた恵子はまだまだ子供の恵子でしかなかったんだと実感する。まだほとんど何も知らない大人になった恵子。それは私にも言える事で、この八年で知らなかった事を幾つも知ったし、昔知っていたであろう事を幾つも忘れてしまったような気がする。それでも久しぶりに会ったこの旧友と自然に程々の落ち着きを持ったこの店に入り、自然にお酒を交わし会話を楽しめているのだから私たちはやっぱり相性がいいのかもしれない。たくさんの知識が増えたとしても、私と恵子の芯はきっと近い何かを持っているのだろう。
「なにが?」
鳥の唐揚げを口に含んだまま恵子がそう聞き返してきた。
「仕事よ。今何をしているの?」
「あー仕事ね……」
恵子は唐揚げを早々に呑み込んでから、テーブルに置かれている甘ったるそうなお酒で口の中を整えているようだった。
「普通の事務よ」
「普通?」
「そう。ふつーの事務員」
普通という言葉を強調して言う恵子の口調に違和感を覚えるべきなのか、それともそれを当たり前と受け取るべきなのか、恵子は私にそう言う間、一度も私の方は見ずに目の前にある視線より少し高い位置に下げられたメニュー表に視線を向けたままだった。
「普通か……」
当たり障りのないように、私はその〝普通〟という言葉を拾っては、すぐに捨ててしまうようにそう言った。
「そ。あなたとは違って、私は全然普通なの」
あなたと呼んだ恵子の声が懐かしく感じられる。恵子は出会ったその時からずっと、私の事を(あなた)と呼んでいた。他の友達はちゃんと名前で呼んでいたのに、なぜか私の事だけはあなたと呼んだのだ。昔は何度も呼ばれていたその声調の〝あなた〟が、私たちが通っていた高校の廊下の情景を思い出させ、陽に照らされた宙を舞う埃や錆びた水道の蛇口、廊下を走り回っている男子の上履き、その近くでひらめくセーラー服のスカートが、今見ているかのように鮮明に蘇る。
「私は普通じゃないのかな?」
普通なんて言葉はずるい。その気になればなんにだって言える気がするし、そして普通ではない異常を羨ましがる人は、普通を劣等感として扱おうとしている振りをして、実は往々に満足している人が多い。目の前の恵子だってそう、普通ではないと思っている私を羨ましがるような素振りを見せつつも、自分がそこに行く気なんてさらさらないのだと思う。
「いや、そんなつもりじゃないけど……」
私たち二人の空気が少し乱れたのを感じ、私はそれを取り持つように
「まあ、そうかもね」
と明るく振る舞った。昔散々恵子に見せていたあの笑顔を意識して、出来る限りの力を込めて笑って見たけど、今はもうそんな純粋に笑う事なんて出来ていないような気がする。無理に頑張って作り出した、安い笑顔が今私の顔に張り付いている事くらい、私自身だってよく分かっている。
「あなたはいいよ、自分の好きな事を仕事にできてるんだもん」
そう言った恵子は少し酔っているみたいだった。顔は少し赤らみ、手首が芯を無くしてしまったみたいに柔らかく曲がっている。
「大丈夫?」
私はそう言って、席の近くを通りがかった店員にお水を一つ注文した。若い女の子の店員は、完璧に出来上がっている笑顔を私に向けた後、すぐに席を離れて行った。
「大丈夫よ。今日は久しぶりの再開だもの。飲むわよ」
「あんまり、無理しない方がいいよ。明日仕事でしょ?」
「うん、そう。そうだけど、今日は飲みたいの」
長い時間を空けての急な誘い。それだけで何かあるのではないかという思惑は少なからず持っていて、だから恵子が私に面と向かって何かがあったとでもいうような、この口ぶりはある意味期待通りだったけど、いざその雰囲気を目の前にしてしまうと気分が少しばかり落ちていく感情にも嘘はつけなかった。
「何かあった?」
そういえば、昔はいつもこうだった。私はいつも恵子の聞き役で、恵子はいつも私に対しての話し役だった。自分からは始めずに、そういった雰囲気を醸し出す恵子に、私は話を聞いて欲しがっている恵子を一度理解してから、ようやく「何かあった?」と声を掛けた。それは昔と何も変わらない。たとえ、いくら長いと思う時間が経っても人間の大元が変わる事はないのだと知り、そんな私と恵子だからこそ、それなりの仲を保っていたのではないかと思った。役回りってきっとある。役は時に自然体でいられる人もいれば、周りの環境から作られる事もあるのだ。私たち二人で考えてみれば、それは間違いなく恵子が前者で私が後者だろう。
 お水の入ったグラスがテーブルに運ばれて、恵子はその水を鷲掴みにして一気に飲み干した。こんっという音をたてて、グラスがテーブルに置かれた時に
「私結婚するんだ」
と恵子が言った。顔はまだ赤みを帯びていて、それが真実であるのか虚偽であるのか私は疑心を抱いてしまう。
「……結婚?」
そう聞き返すと
「うん」
と言って、首を大きく縦に振った。素直に喜べばいいのに、「おめでとう」の一言も口から出てこない。なぜだか私は絶句したまま、体を固めていた。
「おめでとうくらい言ってよ」
と上目遣いで私の方を見る恵子に
「あ、うん……おめでとう」
と、ようやく言えた。やっと出た「おめでとう」には、自分でも申し訳ないくらい気持ちが乗っていなかったけど、恵子は小さく「ありがとう」と言った。でもきっと恵子だって私の言葉に気持ちが表れていない事くらい容易く見抜いていたに違いない。それを踏まえた上で「ありがとう」と言ったのだ。多分、私たちの関係が良かったのはこういう些細な部分を気にしてこなかったからなのだろう。
 なんだか分からない伝票やら資料やらどこかの小さなパンフレットやらでパンパンに詰まった手帳を小脇に抱えながら、私は新宿の街を普通に歩くよりも少しだけ早いスピードで歩いていた。少し前より随分と汗をかかなくなったのは、未だ私の体を刺すように照る太陽の光りを、少し冷たくなった風が和らげてくれているからだろう。次の土曜日に公開する映画「春が落ちる」の監督へのインタビューを取りに向かう最中だった。手帳に挟まれている何かの小さな紙切れが落ち、それに気付いて拾い上げようとした時に携帯がメールの着信を知らせた。
〝昨日は楽しかった!また行こうね! 恵子〟
絵文字の一つもついていないメールは恵子のイメージとかけ離れていたけど、それが変に現実味を感じさせ、私も絵文字の一つも付けないメールを打った。メールを打つ事に夢中になっている内に手帳から落ちた何かの紙切れは風に紛れて、いつの間にか随分と遠くへと流されてしまっていた。私の元に居る事を不満に感じていたかのように、一目散に風に乗って逃げる紙切れを眺めていると、私はどこで間違ってしまったのだろうと一つ大きな溜め息が自然に洩れている。背中を伝う一筋の汗も、もう無視出来なかった。
 インタビューを行う予定のホテルのエントランスでカメラマンの岸と落ち合った。
「やあ、相変わらず忙しそうだね」
と眼鏡をかけ、やせ細った体の岸は言った。首に下げられているカメラが随分と重そうに見え、気の毒に感じてしまう程細い体は一体毎日何を食べていれば出来上がるのだろうか。私がインタビューに向かう際にはいつもこのフリーカメラマンの岸に撮影を依頼していた。歳は十五も上だったけど、なんだか気が合う人で、岸と一緒にいる時間が私は嫌いじゃない。
「いやいや、全然そんな事ないですよ」
と言い慣れた言葉を口にしてから、私たちは揃ってエレベーターに乗り込み、指定された部屋に向かった。
「今日の監督の映画見た?」
エレベーターの中で順を追って光る数字を見ながら岸が言った。
「いえ、実は見てないんです」
「え?珍しいね、葉月ちゃんが映画見て来ないなんて」
「いや、本当は見たかったんですけど……」
最近映画の公開が立て込み、プロモーションやインタビューで時間に追われていた。つい最近忙しくてなんて言ってしまいそうになったけど、それを言ってしまう前になんとか口の中で留める事ができた。代わりに
「頂いたDVDを失くしてしまいまして……」
なんて嘘をついた。「なんだそれ」と言って岸が笑った。
 丁度エレベーターがチンと音をたててドアを開き
「いやね、すごく面白かったんだよ」
と言いながら岸はエレベーターを先に降りた。後に続く私も
「へえー、そうなんですか」
と言葉も一緒になって追いかける。
「監督に会うの結構楽しみなんだ」
と私の前を歩いている岸の背中が言うと、
「見とけばよかったです」
と私の言葉が岸の背中を叩いた。
 内廊下には奇麗な絨毯が敷かれ、静かな空気が辺りに充満している。
「なんだか、今日は随分といい所ですよね」
うちの会社で宣伝を請け負うインディーズ映画と言えば、それこそ低予算を売りにしているような映画ばかりで、ホテルでインタビューなんて事自体が初めてだった。今まではどこか少し奇麗なカフェだったり、うちの会社だったり、監督の自宅だったり、公園だったりしたのに、今訪れているこの場所はそんな場所からはかけ離れた、インタビューをするべき本当の場所のように思える。
「映画監督として大成功してる人ではないと思うし……もしかしたら御坊ちゃまなのかもしれないな」
とカメラを大切に抱えながら言う岸を見ていると、この人が未だに結婚出来ない理由がなんとなく分かった気がした。優しくカメラを撫でるその手を、きっと人に向ける事が出来ない人なのだろう。
 1304というプレートが付けられたドアの前に着き
「ここだよな」
と岸が言ったのを合図に、私はパンパンになっている息苦しそうな手帳をやっと開いてあげて、今日のスケジュールを確認した。殴り書きで書かれた〝エステートホテル〟という字の下に〝1304〟と書かれそこに丸が付けられていた。
「ここですね」
と手帳を見ながら言うと、岸が部屋のドアを二回ノックした。少ししてドアが開くと、そこにはダボダボのパーカーに太いコットンパンツを着用している男性が立っていた。目元には隈が浮かび、酷く体調の悪そうな焦点の定まらない目が私たち二人を部屋へと招き入れた。
「真田です」
と弱々しい声で言った後で少し頭を下げた監督に、私たちはそれぞれ自己紹介をした。入ってから何も触っていないのではないかと思ってしまう程、そのホテルの一室は整理整頓されていて、私は部屋の窓際に置かれていた椅子に促された。真田監督は小さな丸テーブルを挟んだ私の向かい側に座り、岸はカメラの調整を始めていた。
 十三階から新宿の街を見下ろしたのは初めてで、人がうようよと行き交う街の様子に私の目は奪われていた。
「大丈夫ですか?」
その声にはっとして振り向くと、真田監督の疲れきった笑顔が私に向けられていた。
「あ……すみません」
私がそう言うと、真田監督の笑顔が少しずつ薄れていった。
「よろしくお願いします」
そう続けて、バッグからレコーダーを取り出し机の上に置いた。監督はレコーダーに一瞬だけ目を向け、すぐに私の方へと向き直った。
 まず、何から聞こう。インタビューするのはもちろん初めてなんかではなく、今までにそんな事は考えもしなかった。ただなぜだか、一番最初の質問をしようとすると私の口は固まったように動かなくなってしまうのだ。なぜそんな薄汚れた格好をしているのですか?なぜそんなに疲れているのですか?なぜこんなにいいホテルを選んだのですか?なぜ、なぜ……。思い付くのはそれこそ監督自身への質問であり、失礼にも値するような事柄ばかりだった。映画とは全く関係のない事ばかりが私の頭を過る。
「どうしたのですか?」
変な間を作ってしまった私に監督がそう問いかける。そう問うてすぐに窓の外に視線を向けてしまったから、私はろくに返事も出来なかった。普段来ないような高い所に来たものだから、私は窓から下ばかり眺めてしまったけど、監督は窓から見える空ばかりに視線を向け、下を見ようとなんて一切していなかった。横でカメラを構えていた岸も私を不思議そうに見つめている。
「えーと……」
私のその言葉に監督は反応し、こちらを向いた。
「この映画に込められた想いを教えて頂けますか?」
いつも通りの質問をした。誰と対峙してもまずこの質問から初めているのに、なぜさっきまで忘れ去られてしまっていたのか、今では忘れていた事さえ忘れてしまいそうだった。
「……想いですか?」
「はい」
静かな部屋に、岸のカメラがシャッター音を撒いていた。監督は俯きながら答えを考えていて、私はそれを眺めながら答えを待っている。
「想い……」
もう一度監督が言ったその言葉は、シャッター音にさえ呑み込まれてしまいそうな程、小さな声だった。優しく囁くように、でも、誰にも聞こえてはならないようなそんな声なのに私の耳には嫌なくらいによく届く声だった。彼の目の前に置かれているレコーダーさえ録り逃がしてしまったのではないかと思うくらいなのに。
「……人を救ってみたかったんです」
カシャ、カシャ、とシャッターの音が鳴る。
「救う……ですか?」
「はい……僕は大した人間じゃないですから、何か出来ないかって思って、映画を撮りました」
「例えば……映画は人を救う事ができる、みたいな想いですか?それは自己の体験が元になっているのでしょうか?」
「いえ、僕は映画をよく観る人間ではありませんでした。というか、ほとんど観た事なんてなかったんです。だから僕が救われたという感覚はなかった。ただ……」
「ただ?」
「ただ、なんというか……気付いたら映画を撮っていました」
次の言葉をどう続けたらいいのか分からなくなってしまう。映画監督という人にこういったタイプの人間は少なくない。答えに行き着く事の出来ないような答えを延々と述べる、中身の伴わないスカスカの言葉ばかりを並べ立て、結局自分の終着場所を見失ってしまうようなタイプ。今私の目の前にいる真田監督もそういった類いになるのだろう。ただ彼の場合、既に答えは掴んでいるのではないかと私は思えてならなかった。既に分かった上で、そういった分からない振りをしているのではないか。もしかしたら、今私がこう考えている事だって、見透かしているのかもしれない。そんな風に考えてしまうのは、彼の虚ろな表情の中で、やたらと強く光る目のせいかもしれない。

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