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長編小説『becase』 29

私は別に彼の家に住んでいる訳じゃない。私にもちゃんと帰る家があったし、いわゆる半同棲という状態でもなかった。二人の休みの合った日、お昼過ぎに彼の家に訪れ、夜は帰った。

 もちろん、たまに泊まって行く事もあったけど、そんな頻繁な事ではない。それに彼の家に置いているものといえば、上下グレー色のスウェットくらいで、他の物は歯ブラシ一本だって置いていったりしなかった。彼がそういう事を嫌がった訳ではないし、私だってそういう事が嫌いな訳ではなかったけど、それはきっとお互いの空気がそうさせなかったのではないだろうか。

 いくつもの物を置いていけたらもちろん楽だろうけど、ここは私の家ではなく彼の家だった。彼のスペースであり、彼の生活の場だった。そこに私の足跡を残していくのはどうも違う、そんな風に思っていた。唯一置いてあるスウェットだって、彼が私のために買ってきたもので、元々私の私物だったものではない。「うちには大きいのしかないから」と言って、私の体をちょうど良く覆うスウェットを手渡しのだ。

「引っ越すの?」
何気なく私は彼に聞いた。彼は下を向いたまま、何も応えない。何を考えているのかも分からないし、なぜそんな事を思ったのかも分からなかった。ただ彼が今この部屋を狭いと思っているという事だけが、私にはかろうじて分かるくらいだった。

「いや……」
随分と溜め込んだ空気を吐いた時に、彼の口からはただそれだけの言葉が洩れた。完結していないようなその言葉は、彼のその言い方で確実に完結していたように思う。その後に続く言葉なんて絶対にないと、そんな事ばかり私は確信を掴む。

 思った通り彼がその後言葉を続ける事はなく、私たちはいつの間にか彼のベッドの上でトランプを広げ、神経衰弱をしていた。無造作に布団の上に並べられたトランプが不安定な形のままうつ伏せになり、たまに捲られてはまた元に戻される。始めは全然数の減らなかったカードも時間が経つにつれ、少しずつ減っていった。減っていけば減って行く程、カードの減るスピードは増し、後半からの時間の流れは驚く程に早くなる。最後の三組を私は一気に取ったけど、結果お互いが持っているカードを比べてみると、比べる必要もないくらい彼が多くのカードを持っていて。そんな事をしていると、いつの間にか日は落ち、部屋の中が薄暗くなってくる。彼が部屋の電気を点けると、部屋が白熱灯のオレンジ色に染まり、夜の静かな時間が私たちを包み込んだ。

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