見出し画像

長編小説『becase』 30

 それから一年後のまた同じ季節がやってきた頃に彼は「これ買おう」と湯呑みを指差して言った。彼の指の指す先には紺色と薄い緑色をした、大きさの同じ湯呑みが二つ並んでいる。

「え?これ?もっと可愛いやつにしようよ。こんなに渋いのじゃなくてさ」
私がそう言った所で彼がそんな言葉耳に入れないであろう事くらい分かっていたけど、それでも一応私は言葉にしてみる。いつもそうだ。その先の未来が分かっていようとも私はとりあえず彼に提案、提案というよりは抗議に近いけど、もう確実に決まってしまっている答えに、私はその反対意見を述べている。

「これがいいよ」
彼は指を指していた手を伸ばし、紺色の湯呑みを手にした。そしてもう一度「うん。これがいいよ」と小さな声で言った。それに習って私は薄い緑色の湯呑みを手に取ってみる。「うん。これがいい」とはもちろん言わなかったし、そう思う事もなかった。それどころか、「え、こんなの買うの……」と随分と気持ちを落としていたりもした。だからといって彼の事が嫌いになる訳なんてない。手に紺色の湯呑みを持ったままレジに歩き出した彼の後ろを、私は薄い緑色をした湯呑みを持って付いて行った。私の思っていたように、私がいくら抗議した所で、私自身が最初から分かっていた結末に落ち着いた。彼はレジに湯呑みを置き、その紺色の湯呑みが置かれた隣に私が持っていた薄い緑色の湯呑みを並べた。

「ご一緒ですか?」
そう訪ねるレジ係の店員に対し、

「一緒で」
と彼は短く答えた。ピッピッという音が二回鳴り、”¥1,575”と表示された。私が財布を取り出す前に、彼は自分の財布から二千円を抜き出しレジ係の店員に渡す。私は何も言われていないけど、とりだした財布をそっとバッグに戻した。会計を済ませると、店員は茶色い紙で湯呑みを一つずつ包み、それを茶色い紙袋に入れ、彼に差し出した。

「ありがとうございました」
店員のその言葉に彼が少しだけ、本当に少しだけ頭を下げ、すぐに歩き出した。

「いい買い物をしたよ」
レジを離れて少し歩いた頃に、隣にいた私に向かっていた。
「そうかな?もっと可愛いのが……」
「これでいいんだよ」

***アマゾンkIndle unlimitedなら読み放題!***
読み放題はこちらのページ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?