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「手段が目的になる」について

「何かしらnoteを書こう」という衝動が先に来ることは珍しいものだ。
通常であれば、”これを書きたい”からnoteを書いている。
でも、今日はnoteを書きたくて、選んだテーマです。



さて、仕事をしていると、
手段が目的になってしまっている」人をよく見かけます。


例えば、自動車産業でいうなら、
「2030年までにすべての自動車をEV化する!」
とか、
「日本のEVは遅れている!!」
なんて声もありますよね。

バカなのでしょうか。


本来の目的は地球環境やCO2排出削減に配慮した製品開発及び販売


EVを製造販売することが目的になっていませんか?
EVであれば、製造工程や廃棄でどれだけCO2排出しててもいいと思っていませんか?
CO2云々の前に、安全な乗り物であるべきではありませんか?
車とは、人を簡単に殺めてしまうことが出来る道具ですよ。


日本のメーカーはまだマシだと思うんですよ。
”安全” 、”誰でも入手可能”、 ”良いもの”、且つ”環境配慮”な、”乗り物”の開発は、時間がかかって当然だから。オイルショックのころから電気自動車の開発は行われていたらしい。それくらいかかるって。

内燃機関には100年以上の歴史がある。
ガソリン車から電気自動車って、車という乗り物としてのコアが変わる。
エンジンをモータに置き換えただけで成立するのか。
メインは”ソフトウェア”とする乗り物で良いのか。
プ〇ウスミサイルだっけ、制御不能になってしまうことがある。
安全性テストをどれだけやるか、KAIZENの基には安全性がある。

ソフトウェアのエラーと、ヒューマンエラーは、どっちもどっちだがね。
だが、どちらにしても慎重になるに越したとこはない。


TOYOTAの車には乗らないが豊田章男という男は嫌いじゃない


創業者の孫という、ただのボンボンではなく、
あの、超TOYOTA王国の超ボンボンだ。

彼が言い続けているのは、あくまで「カーボンニュートラル
EVの製造販売を目的とせず、あくまで手段の一つ。正しい。
どこかの連合国のようにEVしか販売しちゃいけないみたいなことはしない。
ガソリン自動車排除は政治的でしょ。

TOYOTA王国の経営という超政治的な部分を乗り越え、
そして無事?(まだ無事じゃないか)後任に譲った。
アメリカからもEUからも敵視され続けたが、王国は強くあり続けた。


CO2削減などのエコなこと、バカでかいことは、一部の人間だけで達成できるものではない


EVってまだ高いし、買える富裕層(1%としようか)がいくら頑張っても、
人類が排出するCO2のどれくらいの削減が出来るだろうか。

仮に、EVの”エコさ”は運転中のことだけと考えようか。
CO2排出100 が 0になったとしましょう。
1000人のドライバーの内EVを購入できるのは、100人としようか。

ハイブリッド車の場合、
仮にCO2排出が100 が 50になるとしよう。
1000人のドライバーの内ハイブリッド車を購入できるのは800人とする。

計算してみよう
削減できたCO2は、
EV
 100 x 100 = 10,000(単位は架空の数字なのでない)
ハイブリッド
   50 x 800 = 40,000 

EVを否定するわけじゃないけど、高額で手にしにくく、安全性が低いとなると買う理由がない。

もちろん、EVもたくさん作れば安くなる。
時間をかければ安全性もよくなる。

だから、焦るなってこと。


エコ = EV にすると、大切なことを見失う


途中でも書いたが、
あくまで運転中のことだけで、製造工程や廃棄については見ないふりするEV

そもそも、その充電している電気は
何かを燃やして得た電気では?
もしくは、原子力という何かを犠牲の上に成り立っている電気では?


電気自動車に乗って「俺はエコだ」なんて、
CO2バラまきながら偉そうにしている奴が嫌いだ。


車なんて使わないので私はエコですよね

なんていうのも、本当にどうでもいいことで、
エコであることを人に言う、エゴは不要だ。
それで不便じゃないなら、
それはその人次第だし、押し付けるものじゃない。

ミニマリストをアピッたり、押し付けるようなのも不要。
エゴは、俺の中ではエコじゃない。

人類としての問題を、一人がどうこうできると思うな。
そんなことを言い始めると、極論は死んだ方がいいってことになる。

そういうことじゃなくて、環境について考える中でいろいろな選択肢があるということ。選択肢を多く作ることで意識することでもいい。
EV一択になったとき、果たして本質的なエコに気づけるのか?
そこを考えながら進むべきだろう。



本編はここまで、
読んでいただいてありがとうございました。

過去にも似たような話をしたと思うのですが、ドラクエ感が強くてよくなかった。本来の伝えたいことよりも、”ドラクエで例える”ことが目的になったともいえる。
そう、私でもやってしまうことだ。


本来、noteなんてものは、脳内の考えを吐き出すため(目的)であり、
noteを書くこと(手段)を目的にしていない。
ただ、今回はnoteを書くことから、始まった。
まぁ、note程度ならそれほど悪いものじゃないか。


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