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我が子の未来 #ひとつだけ記事を残すなら

ひとつだけ記事を残すなら。

振り返ったら、noteにはいろんなかたちの表現を書いていました。小説、詩、短歌、エッセイ、コラム、写真、歌、つぶやき、等々。

そのときどきで、したい表現をしているなあと客観的に思います。

おそらくこれからもそんなふうに書き続けると思うのですが、ひとつだけ残すとするなら、創作ではなく、迷わずこれです。

この記事から半年ほど経って、もう少し付け加えたいことがあります。

生まれた子に障害があったりすると、親は初めは絶望したりすることがあって、それを乗り越えて、今はめっちゃハッピーです、という展開があったりします。ぼくが障害児の親として、同じ境遇の人と触れ合うときにも、そういう話はよく聞きます。

乗り越えたから、ほんとに素晴らしいことです。でも、わざわざその「絶望を乗り越える」という過程がなくてもいいんじゃないかと思ってしまって。

何事も問題なく普通に生まれてきたら、ただただ祝福されるわけですよね。ダウン症でも、生まれてきたことをただただ祝福されてほしいなと思ってしまいます。生まれてちょっと普通と違って、絶望すること、それがなければいいのにと。

普通に生まれた子でも、そのときどきで起こる出来事や問題に、右往左往したりすると思います。それと同じように右往左往してる感覚だったらいいのにと。

障害がどうのこうのではなく、この子の一挙手一投足と伴走していることが、大変なことではあるけれど、よりハッピーでもあるっていうふうな感覚が広がってほしいなあって。

わかるんですよ、もちろん。
普通と違ったり、想像していた世界が描けなくなるんじゃないかっていう怖さや、違いがあることで、できるはずのことができない、同じ世界から外れる悲しさ、とかそういうもの。あるいは、生きていけるかどうかもわからない、自分がいなくなったらどうなっちゃうんだろうとか、そういう未知の世界。

だとしても、です。

だとしても、しあわせであっちゃいけませんか。悲しまないと、苦しまないと、不幸でないと、ダメですかね。

そういう雰囲気になっちゃうなら、やっぱりそういう雰囲気の世界であるってことなんだなと思います。

じゃあもう、そういう雰囲気を当事者が止めていくしかないよね。健常児であったって、きっとたくさんの問題と対峙して真摯に生きている親のように、あくまで「この子」とぼくは向き合って寄り添っているだけだと、それが大変なのは当たり前だと、そう伝えることにしたいです。

これについては、子の成長とともに、またいろいろ思うことがあることでしょう。そうは言ってもやっぱり大変だったよ、ってなるかもしれません。

だけどそのたび、言っている気がするんですよね、でもね、めっちゃハッピーなんだけど、って。

そういう未来だけは、なぜか描けているのです。



山根あきらさんの個人企画「#ひとつだけ記事を残すなら」への投稿させて頂きました。

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