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ひとりが好きだからこそ、他人といる時間の”濃淡”を調整しながら暮らす


1日中他人と一緒にいると気疲れする。

同居人(パートナー)を置いて、ひとりでふらっとカフェやファミレスに行く。ときどきリセットするように外出して、気分を切り替えたり、自宅とは完全に違う環境で考えごとをしてすごす。2〜3時間ほどすごして、何事もなかった顔で帰宅する。
私も同居人もずっと会話するようなにぎやかなタイプではないが、同じ空間にいるだけで、無意識のうちに気を遣っているようだ。

仕事でオフィスに出社したときは、ひとりで昼食に行く。オフィスではまわりに常に人がいるし、リモートワークと比べて会話する時間も多いので、昼休みはあえてオフィスから離れてひとりの時間を取る。
毎回同僚と連れ立ってランチに行っている人を見ると、「活力があるなあ……」と率直に感心する。

友だちと遊ぶのは楽しいけれど、丸1日一緒にすごすのはそこまで得意ではない。行き先によっては丸1日コースにならざるを得ないが、可能なら後で合流したりもする。
駅の改札前で手を振って解散して、ひとりで駅のホームに向かうとき、楽しい時間の満足感と同時に、ひとりになった安堵感も一緒にこみ上げてくる。(彼らが嫌いなわけではない。嫌いならそもそも遊ばない。)


昔から、人の感情や空気を読んで行動しがちなところがある。その場において不足や困っていることがないか、対応しておいたほうがいいことはあるか、逆にやるべきことを忘れていないか。「気にする必要はないよ」と言われても、意識的に気にしているわけではない。オートでそうなっているだけだ。場に過不足がないかをチェックするための思考が、常に回っている。

ひとりになると、その思考回路が遅くなる。周囲の人間がゼロになったわけではないので「気にしなくてよい」と言うとやや乱暴な表現だが、気を配る必要のある人、注視すべき人がまわりにいないのは、やっぱり、ちょっと気が楽だ。


ひとりでいるときの自分と他者といるときの自分、ひいてはAさんといるときの自分とBさんといるときの自分は実質別人だと捉えている。実際そうなのだろう。
ひとり旅が好きだったり、ひとりの旅行と他者との旅行を根本的に別物として捉えているのも同じだ。どちらが良い・悪いといったジャッジはない。かたちが違うだけ。

他人といる時間は密度も濃い。せっかくならその時間の満足度を上げたいし、不足があれば補いたい。一方で、ひとりになった後は、何も考えなくてもいいと思える安堵と開放感がある。気を張りすぎだと笑われそうだが、別人だと考えれば、無理筋な話でもないはずだ。


人との心地よい距離感は、ひとりひとり異なる。場所や相手、シチュエーションによる濃淡もあるだろう。私の場合は、どれも割と「遠め」「薄め」なのかもしれない。
あえてそれを「近め」「濃いめ」に矯正しようとは思わない。ときどき近くて濃いのは問題ないので、自分の動きで濃淡を調整できればいい。

1日のなかでも時々ひとりになりたい。濃淡を調整するような距離感を許容してくれる人と時間を共有していきたいし、かかわる相手の距離感にも寛容でありたい、と思う。

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