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海に沈んだ

 たった数行の手紙すら書き終えることができません。率直な気持ちを書き連ねても二言三言で止まってしまう。不特定多数に読まれるのであれば、このような気苦労もなく、気のきいた冗談でも思い浮かぶのでしょうが、素直な言葉をまとまった形にするのは気恥ずかしくもあり、なかなか上手くいかないものです。

 あの日は雪が降っていましたね。プラットホームに人影もなく、並んでベンチに座っていました。覚えていますか。とっぷり日も暮れた午後七時、上弦の月が出ていたはずです。卒業を間近に控えた時期でした。いつもなら、赤ちょうちんの暖簾をくぐって一杯引っかけている時間です。それなのに、あなたは家路を急ぐ始末です。雪でダイヤは乱れに乱れ、次の電車はいつ来るのやら、てんで分からぬ有様だというのに。

 あなたは何かに焦っていましたね。卒業制作がまったく手つかずだったから? お腹が減っていたから? 寒かったから? それとも月があまりに青白かったから? 降り積もっていく雪にはしゃぐでもなく、交通機関の混乱に苛立つでもなく、あなたは線路の向こうを見ていました。あの時、あなたは何を見ていたのでしょうか。同じ景色を見ていたはずなのに、それが今でも私にはわかりません。

 線路を挟む街路樹のように建ち並んだビル群は、街灯と月明かりに照らされていました。建物の中に引きこもっているのか、行き交う人も絶えて久しく、雪がちらつくばかりの静けさ。聞こえる音といえば二人の真白い呼吸のみ。コートにマフラー、片方だけの手袋も、あなたに借りたものでした。温もりだけが一方的に差し出せる、たった一つのものであるというのに、それすらも徐々に失われていきました。

 暖かい場所で育ったものですから、なにぶん、寒さに弱かったのです。どうか責めないで下さい。私も知らなかったのです。体の自由がきかなくなってから、取り返しのつかない事態に陥っていることに気が付きました。手足は端から痺れて動くこともできません。あなたに助けを求めようにも、舌がもつれて上手く喋れませんし、体の力は抜けていきます。最後の言葉は動く触手で、降り積もっていく雪の上に記すのが精一杯でした。冷たい雪に文字を書くのは骨の折れる作業で、触手は思うように動いてくれませんでした。あまりの苦痛に私は——作業半ばでありながら——思わず目をつぶってしまいました。

 目をつぶると南国の砂浜が見えました。砂浜の上に指先で文字を書いては消してを繰り返す水着の女がみえました。ああ、まったく微笑ましい光景です。体は寒さに震えることもできない有様だというのに、目蓋の裏には真夏の陽差しが降り注いでいるのです。安らかな気持ちになっている自分に内心で腹を立ててはみたものの、自意識の境界も段々とおぼろげに、まるで眼裏の太陽に溶けるように薄くなり、私は冷たくなってしまいました。

 最後に私は書こうとしました。「どうか海に沈めてください」と。ちゃんと書けていましたか? 努力はしたつもりですが、判読できるように書けたか、いささか自信がありません。しかし、ここは信じることにして、私は海に沈んだものとしましょう。海の底で温もりを取り戻した私が、この手紙を書いているものとしましょう。つまり、私はここがどこなのか、未だによく分かっていません。記憶を頼りに、こうして文字を書いています。人間がどれくらい生きるものなのか、詳しく覚えていませんが、大丈夫でしょう。この程度の記憶の欠落で済んでいるということは、百年程度のものでしょうから、あなたも元気に暮らしていることと思います。そこは暖かいですか。卒業はできましたか。ビールが恋しいです。再会したら、赤ちょうちんで乾杯しましょうね。では、また。

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