変哲のない今日の景色を鮮明に思い出したい。
近所にある丘へはじめて登った。
夜に、
綺麗だったなあと、その景色を見たいと思って写真フォルダを開こうとしたときに気づいた。
写真を撮っていない!
私が写真をあまり撮らなくなった理由は、たぶん一緒にいる彼が写真を滅多に撮らないから。
彼は、目の前の景色が綺麗であることを心に刻み、脳内で自然に写真をとっている。
(ポエムではなく、彼の記憶イメージはそのように記憶されるらしい)
そしてそれは、彼がいいと思ったものであれば、ずっと写真記憶として頭の中に保存される。
だから彼は、いつも目の前で写真を撮ることなく、その場を純粋に楽しんでいる。
それを目の当たりにすると、私が、一生懸命思い出に写真を撮っている時間が、ちょっとなんだか馬鹿ばかしく思えてくるのである。
(写真を撮ること自体ではなく、この状況においての話)
冒頭に話を戻ると、
だから、今日みた丘の上の綺麗な景色の
写真がない!
という状態になった。
いつもならこれで終わりだが、
今日はふと考えてしまった。
私の今日のこの記憶はどうなる?
そして彼の中の記憶はいつまで残るの?
私は、この景色がどんなに素晴らしいと感じたとしても、鮮明に写真のように思い出すことはもちろんできない。
今日ははっきりと思い出せるけど、どんなに頑張って思い出してもどんどんどんどん目が悪くなったように、ぼやけて、きっと抽象画のような記憶になってしまう。
対して彼の場合、覚えておきたいものはずっと覚え続けられるが、覚えておく必要がないものに関しては、データを消去したように忘れてしまう。
例えば、私たちが別の道を辿ることになったとして、今日の記憶は、彼の頭の中に保存され続けるだろうか。消えてしまうだろうか。後者だった場合、今日の丘の上の綺麗な景色と共に、楽しかった今日のことも消えてしまうのか。
そうなったら写真がないから思い出す術もないだろう。
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「写真を撮ること」は
思い出を形として残すことができる。
一方で、写真を撮らないほうが、
記憶として残るという研究もある。
もちろんどちらがいいかという話ではない。
ただ、私は今を生きていたいと強く思った。
よく考えれば、
彼がこの景色を忘れようと関係ない。
私の記憶は抽象画レベルだけど、もしまたその景色を思い出したくなったら、幸運なことに今のところ私は健康的な体を持っているので、もう一度丘に登ればいい。
そのときは隣に彼がいるかもしれないし、いないかもしれない。どっちにしても私はいろんなことを思い出す。
それだけで、思い出としては充分だ。
彼が今日の景色を完全に忘れたとする。
彼にとってはそういう思い出だったのだから、覚えておく必要もない。
私が隣にいたとして、思い出して欲しければ、私が記憶を呼び起こせばいい。
記憶は忘れて行くことが自然だと思う。
それを写真という文明の利器(相当前からだけど)に頼ることで矯正していると考えるほうが、健康的だ。
忘れてほしくないとか思い出してほしいとか、記憶に逆行するための写真をとることはしたくない。
だから私も、写真を撮らない選択をする。私も今目の当たりにしている世界を常に生きていたいから。
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上記の選択には重要な前提がある。
というか写真を撮るということのある一面
を上記で述べた。
彼が隣にいるとき、だ。
180度意見を変えるが、
いないときは写真をとって伝えたい。
この話はまた別のときしようと思う。
ものごとってスタンスをきって一面で捉えることって遥かに難しくて、勇気がいること。
私にはそれができないので、紆余曲折している思考をどうか許してください。
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