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宗教2世はここにもいる。

言ってみれば私も「宗教2世」です。
母のお腹の中にいた頃から教会へ通っていました。
気がついたら教会の人たちから可愛がられて育ち、当然のように教会へ行き、休んだことはありませんでした。

実は子どもの頃は、嫌だった時期がありました。
私は乗り物酔いの症状が非常に強く、バスに乗ると必ず戻していました。
が、母は毎週水曜日の夜と毎週日曜日の朝、一時間もバスに乗って私を教会へと連れて行きました。
もちろん帰り道も同じバスです。
つまり私は毎週4回も吐き戻していたのです。
拷問のような時間でした。
正直言って、教会へは行きたくなかった。
家で好きに過ごしていたかったです。
ただ当時、私はまだ幼児。
父は仕事で家にはいなかったし、兄も寮生活でした。
私を一人家に置いていける環境ではなかったのでしょう。
私は無理矢理、バスに乗せられました。
ビニール袋を持って。

中学生になったら、近所の教会へ行くようになりました。
要するに、母の通う教会が遠かっただけの話です。
バスで通うことに一つの意義も見出せなかった私が、ようやく自分の意思で教会を選びました。
ただ、教会へ行かないという選択肢は思いも付かなかった。
私はそのまま近所の教会で洗礼を受けました。

どうしてやめてしまわなかったのだろう。
教会は学校ではないのだから、義務ではないのに。
そこはやはり、神様が働いてくださってしまったようです。
カトリックに移る前は、もう何年も教会へは行っていませんでした。
事情があって、大人になってからも何年か、母の出身教会に籍を置いていたので。
そこはバスで連れて行かれていた教会ですが、「ここは私の教会ではない」と心のどこかで思っていて、ほとんど行っていなかったのです。
電車とバスを使う距離ですが、明らかに遠いです。
そして好きではない場所です。

カトリックに移ってからは、電車ですが近い距離になりました。
距離云々よりも、その教会に行きたいので、病気の具合がマシな時に行きます。
子どもの頃の気持ちよりもずっと楽になりました。
何より自分の意思で通っているので。
今にして思えば、子ども時代は強制されて通っていたなと思います。
嫌だと言えない、良い子のフリしかできない、意思の弱い子どもでした。

親が何かしらの信仰を持っていると、子どもにその影響があります。
悪い影響は許し難いことです。
傷つくのは子どもです。
親は良かれと思ってやっているので、始末に終えません。
私みたいに「嫌だ」と言えない、(教会など行かないという)選択肢を与えられないままに、キリストから働きかけがあってそのまま信仰にとらえられる場合もありますが、多くの場合は本当に嫌だと思います。
傷つく子どもが少しでも減るように、教会は信徒教育のやり方を考えてほしいなと考えたりします。
(例えば乗り物で吐き戻す子どもは誰かに預けて、一人で教会に来るとか)

たかが乗り物酔いだと笑われるかもしれません。
でも本当に苦しかった。
こんな小さな「宗教2世エピソード」もあるのです。
かわいいですか? かわいいと思うでしょう?
本人の気持ちはかわいくないです。
意思のなかった自分自身を憎みます。
なんでも親の思い通りに動いて。
(仕方なかったけど)

現在は教会に繋がっていられることに感謝しています。
でも、あの頃の苦しみは今でも忘れない。
残念ながら今でも恨んでいます。
それくらい苦しかったのです。

苦しむ子どもたちが減りますように。
親たちが子どもへの配慮ができますようにと祈ります。