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第四十四話

「は?何を言ってるんだい?」

 源一郎が目覚めたと聞き、喜び勇んで駆けつけたお吉の顔が、怒りを湛えた般若に変わる。その圧に与しそうになる自分を奮い立たせ、源一郎はお吉を真っ直ぐ見たまま言った。

「だから、お凛を松葉屋に住み替えさせると言ってるんだ」
「なに生ぬるいこと言ってるんだい!あれは千歳屋様を殴って逃げだしたばかりか、楼主であるあんたに怪我させたんだよ!中見世に住み替えなんて罰にもなりゃしない!他の遊女達に示しがつかないだろう!」
「罰は折檻で十分受けただろう。それにお凛は俺を刺そうとしたわけじゃない。俺が勝手に手をだしただけだ」
「そんなことどっちだっていいんだよ!あんたがなんと言おうと私はあの女を許さない!お凛は河岸の切見世に住み替えさせる!わかったね!」

 案の定お吉は烈火のごとく激昂し、有無を言わさず源一郎を従わせようとしたが、今回ばかりは源一郎も引くわけにはいかない。

「もう松葉屋には話をつけてある、これを見てくれ」

 源一郎に手渡された紙を渋々受け取り目を通したお吉は、驚きの声を上げる。

「この金額…」

それは、松葉屋からの証文だった。公孝はお吉の火の粉が振りかからぬよう早々この場から立ち去っていたが、源一郎が公孝に託した賭けは見事に成功し、急を要することを理解した高野屋がすぐに取り計らってくれたのだ。

「千歳屋を怒らせてしまった今、お凛を切見世にタダ同然の値段で叩き売るのと松葉屋に住み替えさせるの、どちらが玉楼にとって得かは火を見るよりも明らかなはずだ」

 先程までとは打って変わって、心が動かされている様子のお吉に、源一郎は必死に畳み掛ける。

「頼むよ母さん!問題を起こした遊女をこれだけの値で買ってくれる見世が他にあるか?玉楼のためにも、絶対にこの話に乗った方がいい」

少しの間考えこむように黙っていたお吉が、証文から顔を上げ口を開く。

「…確かに、あんたの言うことも一理あるかもしれないね。全く、お凛も運のいい女だ。顔を切り刻む前に佐知が入ってきてくれてよかったよ」

 お吉がお凛にしようとしていたことに、我が母ながらゾッとしたが、大金が入るとわかった途端にんまりと微笑む姿を見て、源一郎は安堵する。

「それじゃあ、お凛を折檻部屋から出してやっていいな」
「ああ、それはもう少し後にしとくれ。今忘八たちがゆっくり楽しんでるところだからね」

 しかし、即座にお吉の言葉の意味を理解し源一郎が折檻部屋へ向かわんと立ち上がると、お吉がピシャリと言い放った。

「どこ行こうってんだい!もし止めようってならこんな証文破り捨てて、お凛は河岸の切見世行きだよ!」
「なんで…」
「なんでもくそもあるか!あの女は玉楼の看板に泥を塗ったんだ!これくらいの罰でも生ぬるいくらいだよ!どうせこれから沢山の男に身体売るんだし丁度いいくらいだろ」

 お吉の言葉に源一郎は首をふる。

「それは違う!あんな乱暴な奴らに姦されたら、恐怖心が植え付けられて遊女として働けなくなるどころか、また自殺しようとするかもしれない!」
「だからなんだってんだい?そんな遊女を欲しがったのは松葉屋だ。住み替え後お凛が何しようとこっちの知ったこっちゃないよ。終わったら猿轡でもして、松葉屋に行くまで自殺しないようにしとけばいいだろ」

 声を荒げる源一郎と裏腹に、お吉の声は寒気がするほど冷え切っていた。

「この際だからはっきり言わせてもらうがね、あんたは遊郭の楼主になるにはあまりにも女に甘すぎる。前楼主だったあんたの父親だって、足抜けした遊女に容赦したことなんてないよ」
「…」

 源一郎が何も反論できずにいると、お吉は幾分表情を緩め言葉を続ける。

「いいかい、あんたはこの玉楼の楼主なんだ、女達を管理するためにも、時には鬼になることが必要だってわかってるだろう?
今回の件は大目に見てやるが、とにかくおまえは怪我が良くなるまでゆっくり休んで、見世の事は私に任せておきな」

まるで幼い子供を説き伏せるようにそう言い、お吉は証文を持ったまま、軽い足取りで源一郎の部屋から出て行ってしまった。
 掌を握りしめ、黙ってお吉の背中を見送っていた源一郎は、やがて大きく息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。

 お吉は、お凛を助けたら切見世行きだと言っていたが、金の亡者である母が、今更そんなことするわけはないと源一郎には分かっている。だったら、後から行こうと今行こうと結果は同じ。だが襖を開けた途端、目の前に佐知が立っており源一郎は動揺する。

「母に見張れと言われたのか?」

源一郎の問いかけに、佐知は黙って首を横に振った。

「源さんは、折檻部屋へ行くんですか?」

 逆に自分がしようとしていることを言い当てられ、源一郎は驚愕する。お吉を呼びに行った後、佐知は部屋に入ってこなかったが、おそらくここで全ての話しを聞いていたのだろう。

「おまえも、俺は楼主として甘すぎると思うか?」

 肯定の代わりに発した問いに、佐知は深く頷き、正直な反応に苦笑いを浮かべながらも、源一郎は佐知の横を通り過ぎていく。佐知は咎めるように源一郎を見やったが、止めようとはしなかった。

(俺は、小春への罪滅ぼしを、お凛にしようとしているだけなのかもしれない)

 まだズキズキ痛む手と、目眩のする身体に鞭打ち折檻部屋へと向かう源一郎の脳裏に、最後に見た小春の笑顔と、無惨な死に様が鮮明に浮かぶ。だがもう源一郎は、その残像を振り払わない。漸く覚悟できたのだ。甘いと言われようと、父のようになれなくとも、自分は自分のやり方で、この玉楼の楼主になるのだと。


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