見出し画像

第三十五話

 それは、今まで一度も見たことのない夢だった。年の頃、四つにも満たないように見える幼い自分が、小さい掌でしっかりと母の手を握り、優しく微笑む母を見上げ笑っている。そこまでは、物心ついてからも覚えのある光景。違うのは、もう片方の掌に、父慎一郎の温かく力強い温もりがあること。

 今住んでいる屋敷とは比べようもない、質素で慎ましい家屋の庭を、楽しそうに歩く3人の姿は、どこから見ても幸せな家族そのもので、海はこれが実際にあった出来事なのか、願望が夢となって現れたものなのかわからなくなる。
 自分を真ん中にして手を繋ぎながら、父と母は笑顔で会話をしていた。

「ひろと海にも見せてあげたいな、川とは比べ物にならない、この空みたいに広いんだ」
「この空みたいに?本当ですか?」
「本当だよ、初めて見た時感動して、だからこの子の名前も海にしたんだ」

 父の言葉で、海は二人が、自分の名前の由来になった海について話していることに気づく。

「そうだ、今度三人で海を見に行こう」
「本当に!いいんですか?行きたい!」

 華やいだ表情で笑う母を見て、海も思わず嬉しくなる。

「楽しみだね、海」
「あい!」

 まだ言葉足らずな海の頭を撫でる母は、今の海から見ると、まるで無邪気な少女のようだ。父はそんな海と母を優しく見つめていたが、どこからか見知らぬ男が現れ、父に何かを小声で囁く。その様子を見る母の顔がみるみる曇っていくのを幼いなりに感じとった海は、繋いでいる母の掌をギュッと握りしめた。

「それじゃあ、また来る」
「…はい」

 自分達から離れていく父の背中を、切なげに見つめる母の横顔を、海はなすすべもなく見上げている。思い出した。記憶の底に埋もれていた、幼すぎるありし日の記憶。
 この日を境に、父は自分達のところへほとんど来なくなった。父が母に会いに来るのは、年に数回。その数も、年をおうごとに少なくなっていき、やがて来ることはなくなった。三人で海へ行く約束も果たされることはなく…

 再び父と再会したのは母が亡くなった日。最後に三人で会った日から、二年の月日が経っていた。だが、そんな未来など知るよしもない母は、海の目線と同じ高さにしゃがみこみ、不安気な海に語りかける。

「大丈夫よ、父様はまたすぐに来てくれるから」
「うみいく?」
「うん!海の名前と同じ、広い海も見に連れてってくれるって、楽しみだね」
「あい!」

 素直に返事をする海の頭を愛しげに撫でながら、母はもう一度、今度は自分に言い聞かせるように呟いた。

「きっとまたすぐ、会いにきてくれる…」

 と、突然、海を包み込むような母の声が、憎しみのこもった女の声に変わる。

『もう来る気などないくせに!適当なことを言うな!その気もないのに期待させて、涼しい顔で突き落とす!お前は鬼だ!』
『ここから早く出てって!ここはあんたみたいな奴のいるところじゃない!!出てけ!出てけ!おまえなんてここから出て行け!!』
『こんな男は死んだほうがいい!』

 目の前には、恐ろしい般若の仮面を被った女達が現れ、小さな子どもだった海も、気づけば今の姿に戻っていた。般若となった女達は、その瞳から涙を流し、海に憎しみをぶつけんと追いかけてくる。海は腰を抜かしそうになりながらも、必死になってその場から逃げ出した。

(怖い!怖い!助けてくれ!誰か!)

 無我夢中で走っているうちに、海は目の前に小さな扉があるのを見つける。
 あの時と同じ、そこへ入りこめば梅が待ってくれている。会いたかったと嬉しそうに笑って、怯える自分を優しく抱きしめてくれる。視線の先に光が差し込み、扉の向こうに一人の女が立っていた。

(梅だ!)

 影になって顔は見えないが、海は縋るように手を伸ばす。 
 はやく自分を抱きしめて、どうしたのと言いながら、信頼しきった無邪気な笑顔で笑ってほしい…

(うめ…)



 目を見開き、最初に視界に飛びこんできたのは、無表情で自分を見下ろす、人形のように美しい華子の顔だった。一瞬自分の置かれている状況がわからず、ぼんやりと華子を見つめていたが、すぐに昨夜のことを思い出し、さっきまでのは夢だったのだとホッと胸をなでおろす。

「よかった、実はさっきまで酷い夢を見てて…」

 悪夢の恐怖が幻であったことを確認するように、華子に笑いかけながらその髪に触れようとすると、華子は海の手を払いのけ視線をそらした。

「華子?」

 明らかに機嫌の悪い華子の様子に、どうした?と訝しげに尋ねるも、華子は別にというように首を振るだけで何も答えようとしない。

「華子、頼むから、なんで怒ってるのか教えてくれないか?」
「…」 

 訳もわからぬまま、自分がいったい何をしてしまったのか知りたくて、海は無言の華子に必死に食い下がる。

「頼むよ華子、俺たちは夫婦になったんだから、華子の思ってることは全部ちゃんと言ってほしい」

 海の言葉が心に届いたのか、華子は瞳を揺らし海を見つめ、そのまま意を決するように、固く閉ざされていた口を開いた。

「うめって誰ですか?」
「…」

 息を呑み固まる海を、華子は責めるように問いかける。夢の中で叫んでいたのだとばかり思っていたが、まさか実際に口に出していたとは…

「いや、その、遊郭で出会った女で…」

 これは誤魔化しようがないと観念し正直に答えると、華子は小さくため息をつき、吐き出すように言った。

「あなたがどんな男かわかってたはずなのに、やっぱりいやです」
「そうだよな、俺みたいな男、誰でも嫌に決まって…」
「違います!あなたが嫌なんじゃない、あなたが苦しそうに魘されてるなか、私ではなく他の女の名前を呼んだことが嫌だったんです!」

 海が全部言い終わらないうちに、華子は即座に海の言葉を否定し激昂する。言った後、華子は頬を紅潮させ、辛そうに俯き言葉を続けた。

「情けないです。男とは妻がいても他に女を作るものだと、父上を見て充分わかっていたはずなのに…海様の元へ来る前も、男は外にどんなに女を作っても必ず妻の元に帰るのだから、堂々としていればいいのだと父に言い聞かせられていたのに…」
「華子…」
「わかってたのに、それでもいいと思っていたはずなのに、あなたに一度抱かれてしまったら、自分以外にもあなたに優しく抱かれている女がいると思うと、苦しくて、悲しくて…」

 言いながら、華子の瞳から一筋の涙がポロリと溢れ、それを隠そうとするように、華子は自分の顔を両手で覆った。

「華子、すまない」

 自分の浅はかな言動が華子を傷つけたことを悔い謝りながら、海は華子の身体を抱きしめる。先ほどまで見ていた夢のせいなのか、自分の妻となった華子の怒りと悲しみを目の前にした海の心に、慎之介と自分の母の顔が交互に浮かんだ。

『こんな男は死んだほうがいい』
『きっとまたすぐ、会いにきてくれる』

 他の女との息子である海を憎み、殺そうとした慎之介の母親。果たされぬ約束を信じ、時が経つにつれ訪れてこなくなる父を待ち続けた海の母。
 この負の連鎖を止めるには…

「華子、俺はもう、遊郭には行かない」

 口をついて出てきた海の言葉に、華子は顔を上げ驚愕の表情で海を見つめる。

「俺の妻は華子だけだ、 夫婦になると決めたからには、華子の父親や俺の父のように、家族を傷つけるようなことはしたくない。俺もおまえもそのせいで散々傷ついてきたのに、同じ思いをさせてしまってすまなかった」
「本当に、信じていいんですか?」

 消え入りそうなほど小さな声で、華子は海に問いかける。その声には不安が入り混じっていたが、海は華子の髪を撫で頷いた。

「信じてくれ、華子…もう遊郭には行かない。お前が悲しむなら、ほかの女を抱いたりしない、約束する」

 海の言葉に答えるかわりに、華子は顔を覆っていた手を海の肩に回し、華奢な身体を擦り寄せてくる。

「海様…」

 海の胸に頬を埋めすすり泣くその姿は、道場で自分を真っ直ぐ見つめ、周りの男達の喧騒を沈めた権力者の娘と同一人物とは思えぬほど弱々しい。

 もしかしたら、自分にとって鬼でしかなかった慎之介の母も、華子のように、一心に夫である父を好いていただけだったのかもしれない。海に切りかかってきた女も、心中立てを迫ってきた女達も、女を鬼にしたのは、欲望に抗えぬ不誠実な自分だったのかもしれない。

 遊郭へ通い、行きずりの女と身体を重ね癒されながら、女という生き物を何より恐れるという、矛盾した感情を抱え生きてきた愚かな自分。でももう、同じ間違いを繰り返したくはない。華子と幸せな家族を作るために、華子の深い愛情も激しい嫉妬も、全て受け止め、死ぬまで共に生きていく。

『きっとまたすぐ、会いにきてくれる…』

 だが、そう決心した海の脳裏に、夢で見た母の言葉がよぎる。

(母は、自分の元へ来なくなった父を、恨んだことはないのだろうか?)

 死の直前まで、母は父のことを悪く言うことは一度もなかった。海の手を握り、お父さんのように立派なお侍さんになるんだよと言いながら微笑み死んでいった。海には、母の優しく笑った顔しか思いだすことができない。

『お母さんは変わってなんてないよ、私、この唄好きだよ。多分、海のお母さんは、この唄の中の女の人みたいに、海のお父さんのこと本当に大好きだったんだよ。一緒に死にたいって思うくらい、好きだったんじゃないかな…』

 不意に浮かぶ、遊郭で最後に出会った梅の言葉。名前を呼べば嬉しそうに微笑み、自分を見上げていた。もう二度と現れなくなった自分を、梅はどう思うだろう。なぜたった一度会っただけなのに、忘れられないのか。あの悪夢の中、なぜ妻となった華子ではなく、梅に救いを求めたのか?
 頭に浮かぶ問いに、海自身答えることはできなかったが、今その答えを出すべきではないこともわかっていた。

「華子…」

 全ての迷いを打ち消すように、海はもう一度華子の名を呼び、抱きしめる腕に力を込めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?