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サヴォン

   死と浄化についての話がある。聴いて欲しい。

   柴田恭太郎、彼は今し方、彼を遇するものたちによって心底疲弊し、もはや捨て鉢になりつつあった。

   もはや何処とも判らぬ人里離れた深い山中、敗れた野武士の心境になりて当てもなく、死にゆく魂をゆらりと先導させ、無色透明にでもなったかのような気分で如何にも茫然自失に彷徨っていた。

   逆さにした剣山みたいな陽射しの放射が、幾重にも連なる青葉や梢を難無く往行する蛇へと姿を変じ、すり抜け、薄く張った脆弱な人肌を尽く刺激し、赤く腫れさせる。その執拗な攻撃により恭太郎の体内にあった多量の水分は皮膚を守るべくべたべたの粟粒になって、毛孔から幾分かずつ放出され、その粟粒はTシャツやズボンの繊維に侵入して臭い生温い、不快な汗となる。依って体内の水分量は徐々に減少し枯渇してゆく。喉が乾き、舌が上顎に張りつく。倦怠。無力感。思考の散漫。痺れと眩暈。ベタつき、次第に重たくなる衣服。

   いっそ半裸になって、沢の音が聴こえてくる谷間へ栗のように無様に転がりながら滑落してゆきたい気分になるのである。

   けれども恭太郎はそれをしない。なぜならそんなことをすれば身体中が朽ち葉や虫の死骸や腐敗した荒土にちくちくとなってこれらにまみれながら更には尖った岩や突き出た鋭利な枝木に切り裂かれて酷い手傷を負ってしまうからである。それは猛烈に痛むだろうし汚れる。汚れるのは嫌だ、誰しも。

   いやそもそもの話、そんな突拍子も無いことに実際に身を投じる気概は毛頭無いし、それに、そのように作為的なことをすれば結果的に無為に死ぬことになるかもしれない。頭蓋骨をでかい巌に無為的にぶっつけたりなんかして。

   そのような浄化を望むのではないのだ、私は。

   このように発作的で無為的な死を無意味&無価値にイメージしながら、ただ、ぼんやりとなんとなく死への不安があるにはあるのだが、俯瞰するに恭太郎は探検家然としていて、まるでずんずんと森の中を奥に奥に分け入ってゆく一己の狩人か、一己の狂いかけた追憶の俳人であった。そしてやはりそれは見るからにして捨て鉢である。

   また、恭太郎は逃亡する罪深い若者でもある。そして、実体の視認できる紛れのない幽霊なのである。恭太郎は幽霊ではあるが二本の脚を股下に持っていた。そしてその二本の脚を巧みに酷使して、歩みを簡単には止めなかった。

   何時間ほど登り降りを繰り返し、無作為に歩いてきただろうか。辺りを見渡すとさっきまで煌びやかに光り、鮮やかに深い緑だったものは死灰のトーンへ様変わりしている。日が暮れ尽きて、上空に垂れ幕がかかり、今では真実の色彩がさっきまでどんな調子だったのかを思い起こすことができない。山壁の翳りにいては、より一層辺りは仄暗く視える。

   あゝもうじき夜になってしまう。夜になったらどうしようか。あゝどうしよう。どうすればいいかな、私。

   そしてそれからどうしようもないまま、唐突な夜となった。

   夜行性の生命がそこら中でがやがや蠢いている。自我を主張しない静寂はこの闇には訪れそうになかった。梟、夜鷹、虎鶫、野犬の遠吠え、種々雑多の夏虫、衣擦れのような、かさかさと生き物が蠢動する音、その他様々の名状し難い、音のような音、或いは奇妙な、声のような声が、大小何処からともなく聴こえてきては、恰も耳元で次第に音量高々になりながら囁いているみたいに近くに背後に脳髄に響く。藪から飛び出し、数匹の蚊も血液を欲しがって集まってきたらしい。

   さあもうどうでもよい。愈々面倒になったのだ。

   恭太郎はさして太くもなくかと云って細くもない古木の根と根の間に腰を下ろし、もはや塵捨場の人形や玩具の如くに煤けて薄汚れ、頸部以下の上半がはだけて露わになってしまっていた。四肢は力無く垂れ落ち、重力のされるがままに横たわり、しかるに頭の中はまるで無重力空閑を愉しんでいるのだった。

   黒く濁った石油に浮かぶ不純物のかけらみたいに、星々が何千と宇宙空閑に散らかっていて、ざわざわと、消えたり光ったり、突発的に消滅したり出現したりと、まるで煮え立ってふつふつしている。まるで自分の身体が自由を得た魂だけになって宇宙遊泳を愉しんでいるかのような心地で、非常に気持ちが良いし、気持ちが悪い。つまり非常に気持ちが良いのだけれども、なんだかそのうちに異常に気持ちが悪くなってきそうな感じの気配もその先にはある。と云う具合である。

   恭太郎は壮麗に澄んだ夜空を仰いで実際にそれを体験しているわけではなく、瞼を閉ざし、眉間と瞼の裏側にあるVRの視界にいて、茫然とその世界に点在する荘厳な星々を触れるともなく第六感に感じながら、前後左右にふらふら揺れて虚空のまにまに夢のロマンスの彼方を浮遊しているのだった。

   リアリティのあるところでは三半規管が馬鹿になっているのが遠く遠ざかって漸と判る。耳鳴りがわんわんとハウリングしている。顳顬を誰かがノックしていて、歪なリズムに軋んで痛む。汗が染みて尻が痒い。鈍痛があちこちに沸き起こる。ちんぽがいきり立っている。腹が減り、もう手にも脚にも力が入らない。

   そうすると、段々遠くから睡魔がやってきた。そして、あらこんばんはお嬢さん。と頭蓋の内から第三者が云い放った。それに気味の悪い形相の悪魔が応え、育ちの悪い軽い会釈をした。

   からからと宇宙が回っている。訳も無く光がいくらも回っている。回り、回り、回りに回って、未来永劫同じ速度で回っている。地球も周回軌道をルーティンで回っているのだね。僕の頭の中で僕の地球儀が回って回って回って、今もほら、二つに割れることなく、きちんと回っている。

   そうね、回っているわ。

   壮麗でパセティックですね。

   はい。すっごく。

   ねえ君、僕の生命力を表したバロメーターは、今、生よりも死の側に傾いてきておりますよ。いい感じですよ。おっ勃ちます。

   ふと実際の瞼を開けると、闇の中に、微かに光る小さな星があった。恭太郎の脳裏で拵えたイメージ上の産物などではなく、実際にそこにある、ちゃんとした、はっきりと目視できた、本物の、正真正銘の、ぽつねんと光る、新生の星である。

   恭太郎は朦朧としながらもそれを注視した。そしてそれが焚火の光だと判るまでに数秒から数分を無駄にした。生茂る木々に覆われて頭上には澄み渡る夜空がひとつも無かった。月明かりが乏しく、自分が何処にいてどの方角のどの位置を今見つめているか瞬時には判断できなかった。けれども眼前の一点にはっきりと、地上の現実世界に、実際に煌々と光っている人工的な火がある。微かではあっても、それは実在する確かな、新生の星である。

   恭太郎は腰を捻らせ僅かな気合いと両手で以てぼきんっと鳴らし、中空に浮かぶ寸前になるまでふわりと起き上がった。手脚には感覚と云える感覚が無くすべてが鈍いように感じたが、生きている確かな血潮みたいなものの流動が内面に躍るのを感じ取ることができた。曖昧なものがだんだん毛孔の内奥に充満してきて、それでいて意識は明瞭にその光を視界に捉えていた。あの光を目指して歩こうと既に決めていた。距離はおそらくそう遠くではない。今、不思議と恐怖心が薄いのだ。鈍った感覚が、寝起きのようなぼやけた感覚が、恭太郎の心を無重力の空閑に幽閉して置き去りにし、恭太郎の一歩前を闇に乗じた影になって何よりも誰よりも顕に存在していた。

   恭太郎は静かに、着実に、ゆっくりと、今まで居座っていた闇に猫背を向けてしかと歩み出した。

   その光が確実な小火となって、軈て昆布の如くに踊り狂う壮烈な炎となるほどの距離に近づいたとき、恭太郎はぎょっとして茂みの中に隠れた。

   その焚火のかたわらに、炎に赤く照らされた珍妙奇っ怪な生き物が胡座をかいていたのである。

   髪なのか髭なのか判らぬが顔面は毛むくじゃらで、丸まった見難い毛虫のようだ。丸いごつごつした鼻だけが漸とそこから見えていて、何かを頬張って噛み砕いている最中なのか口のある辺りがもごもごとコミカルに動いている。衣服は獣の皮のような襤褸を気持ち程度に纏っているばかりのもので、ざっと二メートル以上はあろうでかい図体を器用に折り曲げて仏を模した置物のようにそこに面白おかしく鎮座している。手も脚ももじゃもじゃの毛だらけだ。しかも太い。厳つい。原始人類みたい。 そう、原始人類だ、あれはまるで。

   恭太郎は生唾を呑んだ。潤んでくる舌上の唾を何度も喉の奥に呑み込み、激しい目まぐるしい思考を開始させた。そこに宇宙の無重力の産物は微塵も見当たらなかった。手脚の感覚がじわりと蘇ってきたのだ。

   このまま隠れていようか。それとも来た道を引き返すべきか。いやけれども、引き返したとて帰る場所など無いではないか。帰る場所と云うか、行くべき場所さえ判らないのだ、俺には。俺?俺ってさ、一人称は俺だったっけ。いやそんなことは今はどうでもよくて、俺は僕は私は、いったいここで何を愚図愚図しているのだろう。何をびびっているのだろう。自然な死を望み、覚悟の上で山へ入ったのだ。そして今、眼の前にその自然な死がある。あれがその姿なのだ。あれがその化身とも云うべき、死のシンボルなのだ。俺の信仰するべき神なのだ。よくよく眺めると目も口も鼻もちゃんとあるべき箇所にあるじゃないか。なんだか可愛いような面をしている。あれ?というかこれ、俺は死んでいるのだろうか。それとも生きているのだろうか。なんだか、凄く、自然だ。凄いスケールの大自然だ。自然は美しい。苦痛を宿して微笑んで、綺麗だ。見上げると木々の輪郭を象った隙間から空々しい月が見え隠れしている。月があんなにも儚く、白い。白くて、青くて、明るい。あゝそうだった。俺は罪を犯したのだった。そうだね神様仏様。嘘を嘘とも思わず、人を人とも思わず、傲然と自らの利益の為に生きてきたのだね。これはその罰なのであるね。今思えば、短い生涯だね。人の人生など、煙のようなものだ。まったく儚い、瞬時に悲しみに満ちて、影も残さずにぱっと掻き消えてゆく、陰惨なものだ。あゝファッキン最高じゃないか。それが、人生だ。

   無我夢中のうちに、恭太郎は茂みを出て炎のかたわらに立っていた。その化け物を斜め横に見下すかたちになって、棒立ちになっていた。

   けれども、化け物に驚愕の色も動揺の色も見受けられなかった。恭太郎に気づいてはいるが、何の臆面も、心理が動く微妙な様子も窺い知れない。毛に隠されてどんな表情なのか判然としないのだけれども、それもあって、恭太郎は柄にも無く冷静になることができた。冷静に、つまりクールに、恭太郎は一礼をし、炎の前に腰を下ろし、クールな男子中学生みたいにクールに格好つけて、胡座をかいた。

   「お邪魔します」

   炎は暖かった。夏とは云え、夜の山奥は寒々としている。汗に濡れたTシャツとズボンは水没して溺れたまま身体の体温を強奪していたから、熱の奪われたひ弱な身体には、炎の暖かさが骨身にまで届いた。懐に大金があれば尚良い。大金は暖かい。何よりも暖かい。神よりも有難い。

   化け物が一瞥をくれた。恭太郎も一瞥をやった。目と目が合致した。魂が直結した。

   そして長い数秒の沈黙をやり過ごしたのち、恭太郎は口を聞いた。

   「あの、突然すいませんでした。私は、柴田恭太郎という流れ者です。本当に、突然すみません。こんな山の中で、あの、実はですね、山に入ったはいいが挙句迷ってしまいまして、当てもなく彷徨いまして、それであの、偶々あなた様のこの焚火の火を遠くの方から見つけたので、一人で寂しかったので、こうしてお邪魔させていただきましたのです。いやほんと、なんか、なんと云うか、生きた心地がしませんでしたよ」

   恭太郎は手と手を合わせて合唱。これで以って"いやーすんません"の意を憐れなジェスチャーで表した。

   化け物は返答しなかった。口のくっついている辺りをもごもごさせながら、何かを無心に喰っている。大人しく、身体は微動だにせず、顔面だけで此方を向き、理解できているのか理解できていないのか、異国の言語にその耳を傾けているようにも視える。

   こうして一見慎ましく穏やかにしているけれど、突如怒り出して、僕は此奴に殺されるかもしれない。斧とか槍とかなんだか判らないけれど、そんなような恐ろしいものを何処からかいきなり掴み出してきて、僕の喉か肚を一突き。そうしたら僕は死ぬだろうな。うん絶対に死ぬ。ならば、思いっきり死に給え。死んだら私は私の死骸を踏み散らしながら、炎の周りで盛大に歌って踊って祝ってやる。僕はユーモラスな幽霊になりたい。死んだ己を祝したい。

   頭の一角でやけくそにそう考える部署もあった。けれどもまた違う部署では、穏やかに流れ去ってゆく昼時の、幸福感に酷似した疲労感を抱きながら、社員が休憩室で紅茶やコーヒーなんかを嗜みつつ濡れ煎餅を齧っていた。

   あゝなんか、良い感じだなあ。

   化け物は非常に温厚で大人しかった。利口な犬のように、主人に座れと命じられ、従順に座ったままで大人しくしている。頬張っていたものはもう呑んでしまったようだ。

   憐れであった。見るからにこやつは憐れであった。憐れなのだけれども、この世のものとは思えぬ神聖な凄みがあった。

   妖精、という言葉が辞書にある。妖精という言葉は東洋では妖怪、或いは妖魔に相当する。このシーンには相応しくないかもしれないけれど、妖精、という言葉が何故かこの瞬間から離れてくれなくなった。

   また暫くの沈黙が過ぎた。

   これを破って、安心した恭太郎は身の上話をやり出した。ここまでの経緯である。

   そしてそれらを云い終えるや否や、今度は元上司の悪口、通告されたリストラ、好きになった女の子、苦学生だった頃の苦労話、生まれ持った病の話などを、淡々と、前後の脈絡も左右の言葉選びも無視して、思うがまま、散文的に話した。いや、話したような、そんな気がした。そして洗いざらい自らの犯した罪を白状した気になった。キリストに祈る、改悛者の面持ちになって。

   一筋の泪が流れた。そして堰を切ったかのようにそれが氾濫し出した。偶に嘘のような嗚咽も混じった。衝動の海に揺蕩う理性と云う見張りの舟はいつも余りにも波に脆い。焚火の炎がその舟を跡形も無く燃やし尽くした。津波が起こった。

   原始人類の化け物みたいなこの妖精は、恭太郎の話を旧知の友となって聞いている。いや聞いているのかどうかは判らない。理解していようがしていまいが、この期に及んで殺されようが生かされようが、恭太郎にはもはや関係が無かった。頭の中で形成された言葉の断片が流暢に口から漏れて組み合わさり、川の清流に落ちた一枚の葉となって何処までも留まることなく流れてゆく。こんなことはついぞ経験したことがなかった。恭太郎はそのうちに悦に浸り、自らの内心に感動するのだった。そしてこの場面に感謝感激し、天に祈るのだった。話しても話しても、話し足りない、そんな気がするし、何一つ、上手く云えていない。そんな気もする。

   そしてまた睡魔がやってきた。頭に居る第三者に依って扉が再び開かれたのだ。恭太郎はもう話すのを止した。

   ゆらりと燃ゆる炎を囲んで、夜は暈の外側へ外側へと何処までも端に追いやられていくのだった。

   無風状態が続いていた。

   北の地平線では町が燃えて空を紅く染めていた。

   鵺みたいな妖怪が月を跨いで跳んだ。

   気がつくと朝陽が瞼を焼いていた。その瞼を慎重に細めたまま、機械的にぱちぱちと瞬きをし、それから漸くしてから眼を見開き、横たわった体勢で義務的に背伸びと欠伸をした。

   太陽が天井にあって、放射された鋭い光の矢は瞬きをする度に眼の内奥で伸びたり縮んだりぶわっと滲んだりした。

   恭太郎はくの字に上体を起こし、周りの景色に視線を向けた。

   最初に入ったはずの山道の入口に自分の身体と存在があった。ぱっとしない光景だが、逡巡した覚えが記憶に残っていた。そして山の入り口を正面から見て右舷側数十メートルの先に山の斜面を抉って比較的新しい納屋が建っていた。これも確かな見覚えがあった。あとは田圃だらけで、畔がそれらいくつもの個体を包囲して入り組んでいる。

   ズボンの右ポケットに違和感があった。ちんぽを弄る悪癖を済ました後、右ポケットをズボンの上から恐る恐る触り、中身が何なのかを勘繰ってから間も無くして手を突っ込んでみた。取り出せたのは汚い襤褸切れであった。その襤褸切れにまた何か固いものが内包されているようだ。

   中身は黒い何らかの塊であった。恭太郎はその匂いを嗅いでみた。その塊からはフローラルな香りが漂った。原材料が何なのか、原価が如何ほどのものなのかは皆目見当がつかないが、その塊の手触りや重さ、フローラルな香りから、恭太郎はこれが石鹸ではないかと疑うに至った。

   恭太郎の心中にあるはずのぼんやりとした不安が皆無だった。強い決心を終えた大義名分を背負う賢者の面貌を装い出して、恰も賢者のようにいきなり偉くなって、恭太郎は潔く立ち上がった。

   次に恭太郎の勇姿は静かにせせらぐ川の畔にあった。

   恭太郎は煤けた衣服を脱ぎ棄て、社会性を放棄し、全裸になり、将来に対する考えも未来への希望も恥も慾望も罪も罰もドストエフスキーも何もかもを今度こそきっぱりかなぐり捨てて、縷々としてせせらぐ清流へと入っていった。

   その塊はやはり石鹸であった。水に浸して腕や腿に擦りつけてみれば、見事に泡立ち、あぶくがみるみるうちに分裂して増えてゆく。現代社会の小さな情報のようにみるみる世界中に拡散し肥大する。顔、耳の裏、脇、爪の間、背中から尻にかけて、股を開いてさあ何処もかもを丹念に。そうやって全身を隈なく洗った。ごしごしすると、臭い臭い身体を爽やかな香りを放つあぶくが優しく潤しく覆ってゆく。フローラルな香りに嗅覚が癒されて、身体が、心が、五感も第六感も、どんどん冴え渡り、どんどん綺麗に透明になってゆく。ごしごしごしごし、ごしごしごしごし。恭太郎は、なんだか肚の底から笑いが込み上げてきた。ごしごしすればするほど、ごしごしした部位が綺麗になってぴかぴかになる。爽やかになる。透明になる。ごしごしごしごし、ごしごしごしごし。はっはっは。ごしごしごしごし。はっはっは。面白くて笑えてくる。愉快でハイになってゆく。もっとごしごししてやろう。もっともっとハイになろう。ごしごしごしごし、ごしごしごしごし。さあユーにも、さあさあお前にも、貴女にも。ごしごしごしごし、ごしごしごしごし。皆でごしごしすれば万事良い。ごしごしごしごし。

   そして恭太郎の身体はついに透明になった。

   透明でいて凄くかぐわしい。

   川下の方へ黒く濁った石油が数本の筋をつくっていた。

   その真っ黒な石油に浮かぶ垢や皮脂などの不純物が疎らに散らかって満点の星空を創生し、きらきらしている。

   ぴかぴかと点滅しつつ皆が必死に輝いている。

   恭太郎の姿はもう何処にも見当たらなかった。

   川に並行するように縫う町へと向かう畔には、誰のものか知らぬ足跡が続いている。

   何事も無かった。

   鵺が遠くの山でぎぎと鳴いた。

   シャボンの香りが拙い風に乗った。



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