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峰君について

   彼の名を、仮に、峰智洋とする。

   大人たちの義務的な作為によって割り振られた小学一年の教室で私がその類稀な存在とはじめて出会した頃から、彼はすでに救いようがないほどの馬鹿者であった。

   小学校低学年でどうしようもない馬鹿と成り、中学に進学し自我を突き詰めることもせずに馬鹿に拍車をかけ、高校に上がるとラジコンのような改造バイクに跨って事故ってばかりでもはや見るからに馬鹿のシンボルであった。

   確乎たる、馬鹿の、すっぱ抜かれた、おつむ。それが我が愛すべき隣人、峰智洋君への生涯の心象である。

   おっしゃる通り、諸君が言葉に出さずとも、かく云う私こそが正真の馬鹿野郎なのだが、この際、その点は、峰君についての限定された今回の話題であるがゆえ、皆皆様の寛大な受け皿でもって憂慮していただき、一時、私の身を情状酌量としてほしい。

   峰君。小学五年生で、彼の四肢や陰部などの毛はすべて生え揃っていた。まだ私どもが艶やかな純朴さのある餓鬼であった頃に、彼は私の今現在の疲弊しきった体たらくほどに、成人しきってボロボロに老いてゆきつつあるその淫靡な雰囲気をすでに幾分か兼ね備えていたのである。天は二物を与えぬけれども、天は刻を待たず、ところ構わず一物を与えたもうた。

   そんな無分別な発言は脱線防止ガードにそっと委ねて、話を上手く地続きの軌道上に修正したいが、頭の中で思い出がはじけて自由に四散して、どうにも収集がつかなくなりつつあるので、これはこれとして散文的に駄文的に、流れのままにこの場を突っ切ろうかとも思案する。

   彼は、峰君は、二十代前半で額が急速に後退し、その後半には綺麗にハゲ上がってしまった。

   あゝそうそう、そうでしたね。このご時世そのような身体特徴的な言い草やジェンダーな言い訳はあからさまな侮蔑となり聴衆の反感と批判をたしかに誘発するだろうけれども、いえいえそのような生半可な侮蔑のつもりで云うのではなくて、あたかも必然性を帯びているかのように我が戯言の無遠慮さを論じるのも私の悪癖に違いないのだが、これは峰君そのものを判り易く表現しているにすぎないのであって、彼は生き急ぐこともしなかったが、彼の時間の過ぎ去るスピードは、私どもよりもやや速かったようである。と、これを根拠に云いたかったわけである。

   彼はすなわち馬鹿であった。馬鹿力と云うだけあって、餓鬼の頃から妙に底力があった。小学校の窓硝子が割られれば、たいがいは峰君の仕業であったし、拳の交わらない餓鬼らの鈍麻な喧嘩をすれば、これに負けるようなことはさらさらなかった。ご当人に悪気はなく、ただ餓鬼らしく、いたずらに笑いながら、隠れんぼや、鬼ごっこや、ドッヂボールや、それに類したオチの見当たらない遊びを皆とともに我先にやっていただけであり、閉められたドアの小窓を勢いよく叩いたり、悪戯に障害物に体当たりしたり、ボールを天高く思い切り蹴飛ばしたりしたことが、結果的に、不運にも彼を器物破損へと導いてしまったのである。そう、その通り、彼は無罪放免である。私と同じく、懲役には値しない。いや、本来罰せられるべきは私だけである。理由はない。

   彼と私との思い出は、流血の思い出である。記憶によると、二度の流血騒ぎある。

   一つ目は、一つ目のドアは、簡単に開く。小学五年の春である。

   私は、慢性的な鼻炎と、到来した花粉の季節のせいで、常に鼻がグズグズで具合が悪かった。そのため私は、鼻炎スプレーを常に携行し、どこに行くにもそれを必需品としていて、当然小学校へも持って行き、休み時間になる度に、シュッシュッと霧状のものを鼻腔に噴射していたのである。

   あの日の授業も、峰君がくだらないことを喚いて授業が進まず、峰君が臭い屁を放いて更に何も進展せず、先生さえ笑い転げて、皆が皆、罪深き馬鹿に成り下がっていたのを覚えている。チャイムとともにその授業がいい加減に終わり、与えられた十分間の休み時間に私は尋常通り鼻腔にその霧状のものを噴射するべく、教室の隅に据え付けられた木箱のような己れのロッカーへ行き、ボロ雑巾のような己れのナップサックの底の方を弄っていたところ、何やら、よからぬエベントを企む輩が背後にいるような気が、これはさらさら無くて、さて取り出した鼻炎スプレーのノズルを右の穴へ差し込んでみてふと目前の存在に気がついたのだが、彼が、峰君が、私の目前に立って妙ちきりんにへらへらと笑っていたのである。そして私は右の穴にノズルを突っ込んだまま、怪訝そうな面貌で彼を見詰めて?マークがぴょこんと脳天から飛び出てきたままに、しばらく阿呆なポーズで茫然となったのだが、次の瞬間、私は右の鼻からブシャシャと多量の血を噴き出し、その一部始終をたまたま傍らでみていた芝崎君が気を失い、床に倒れたのであった。

   つまりは、彼は、紙風船を掌でバウンドさせて遊ぶあの軽やかな手付きでもって、私が突っ込んだままの鼻炎スプレーの底を、ぽんっと上空に突き上げたのである。

   私は鼻頭を押さえて泪の粒を何粒が落とし、不平不満を泣きながら吐露したが、先に保健室に運ばれて行ったのは卒倒した芝崎君であった。

   このような思い出は色褪せないものだ。色褪せるどころか、徐々に着色され、鮮やかな色味の増していくものだから、人間の記憶とはなんとも都合がよい。しかしながら、記憶とは印象物にすぎない。印象に残ったものだけが残留し、あとのものは淘汰される運命だ。なのだから、辛い記憶、悲しい記憶、痛い記憶ほど脳裏に焼きついて残り易く、たいがいの、大事な、本来の覚えておかなければならない寵愛の記憶などは、もう跡形もなく、消え失せてしまっている。諸君らにも覚えがあるだろう。あの滑らかに光り輝く数々の裸体も、隆起した乳房の豊かな山々も。燃え尽きて灰塵に帰し、凡庸なものとして床下に埋没してしまった。

   そのようなマトモな、説法的な発言はやはり嘘っぽいのでいい加減に止して、もう一つの扉を開く。そのこじんまりした小部屋の見取り図はこうである。

   やれやれ中学に進学し、中学一年のこれは確か夏である。家を出て山を下り、谷を渡り、また山を上ると我が学び舎があった。その山道は、登れば登るほどの断崖絶壁であり、学び舎からの眺めは村を一望できるほどに見晴らしがよく、山の空気も滞りなく澄んでいた。

   その日の下校時、私は峰君と並んで他愛無い会話をしながら、学び舎からの道を下っていたのだが、容赦なく曲がりくねった道の、ちょうど日蔭から出て再び陽が当たっているカーブの先端に、峰君は立ち止まり、やや視線の上にあるさっき通った同じような後方のカーブのガードレール目掛けて、石ころを投げ出したのだ。

   なにやらやりはじめたなと思い、私もその横で彼の動向を窺っていた。彼は30mほど先のガードレールを目掛けて、石ころを拾っては、幾度も投げた。もはやこれは、あの目標物に当たらねば永久に終わらぬお粗末な一興であった。私はそれを見届けねばなるまいと思った。潔く私は、それを待とうと心に決めて、峰君の側に神々しくスタンバった。天使のようにスタンバり、峰君がムキになり出したとき、私はいよいよ飽きてきて、眼下に拡がる畑の青々しい新緑を見渡していた。ここは田舎だな、と思った。そして、なぜにこの村はこんなにも平凡で退屈なのか、とも思った。いや、そんなことは実際は思っていないかもしれないし、その通りにちゃんと思ったかもしれないが、それはどっちにしろ時間稼ぎと云うか、文字数稼ぎと云うか、取るに足らない、くだらない思想である。現在の私はそう思う。現在の私がそう思ったそのとき、また、あの鈍痛が、過去の私に襲いかかった。

   つまり峰君は石ころを投げることに夢中になり、盲目の心酔者となり、私の存在を頭蓋から打ち消してしまったのである。その結果何が起こるかと云うと、私との距離感を忘れ、徐々に間合いを詰め出す。ガードレールに当ててカカーンと鳴らすためにムキになり、その場を闇雲にウロウロし出す。私の真横にいることにも気付かず大きく振りかぶる。振りかぶった右腕から拳にかけてを思い切り前方に突き出す。突き出したその拳に収まっていた石ころを指から離す直前にさて私の後頭部がある。私の後頭部に0距離射撃の激痛が走る。と、ことの顛末はこうである。

   私の後頭部からはまたもや見事な血飛沫が舞い上がった。

   今となっての笑い話だが、私はそれ以来、彼を馬鹿者扱いしている。すべては過去、もう20年ほど以前のことだ。峰君が今どこで何を考え何を本職としているかは知らない。所帯を持ち、子が沢山あるらしいが、高校を卒業して以来、出会したことは一度もない。どうせ何ひとつ変わっていない。

   記憶は止まっている。今もあの血の付着した石ころは、あのガードレールのあるカーブの空中に高々しく静止していることだろう。しかし、重ねて申すが、記憶とは印象物にすぎない。ならば、さほど重要でもない、と云うことだ。

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