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キューバの日々。未完成のジグソーパズル

キューバに長く居すぎてしまった。そう思いながら、またハバナに戻ってきた。
最後にお世話になったカサのお母さんは、すごく素敵な人だった。家は骨董品などキラキラしたもので溢れていて、お金持ちのようだった。

チェックインを済ませるとすぐに、カサのお母さんに連れられ、家の近所を歩き回った。10メートル毎に出くわすご近所さんに挨拶しながら、さりげなく私のことを紹介してくれた。すごく嬉しかった。
カサに帰ると、家の前の階段のところに座らせられ、コーヒーを渡された。キューバ人はみんな、玄関出てすぐの日陰でのんびりする、これがキューバの過ごし方だよ、とりあえずやってみてごらん、というように。実際、コーヒー片手にのんびりしていると、簡単にご近所の人たちと仲良くなれた。

このカサにはお母さんの他に、ご夫婦が住んでいた。後に聞くと、そのご夫婦の奥さんの方が膵臓癌を患ってしまい、入院や通院のために病院に近いこの場所を借りさせてもらっているんだそう(おかげさまでかなり元気になっているとのこと)。
「わたしたちはほとんど家族です」と言っていて、本当に特別な関係性なんだろうなということが、会って間もないわたしにも伝わってきた。

一方で、サンティスピリタスで仲良くなったキューバ人の子どもたちから、しきりに、わたしが持っていた20ドルをくれないか、生活やお母さんの薬のために使いたいんだという連絡をもらっていた。とりあえず20ドルはもう使ってしまってないんだよと返信し、頭をかかえていた。

社会主義下での生活、キューバの情勢、それが生活にどう影響しているのか、人々は何を思い何を感じているのか。キューバで生活すればするほど、わからないことだらけで、キューバの社会を知りたいという欲求で溢れていった。

10日間も滞在して、キューバに到着した当初よりも、多少解像度は上がったように思う。それでも、わからないことがあまりにも多い。わからないまま、わたしはキューバを発つ。

まるで、幻のジグソーパズルをしているようだった。ピースを一生懸命さがして、組み立てようとした。でも結局、ピースは全然足りないし、何の絵が描かれているのかまるでわからなかった。でもきっと、社会というのは、人々の断片の寄せ集めなんだなと思った。
ピースにはつながりがありそうで、でも全然なくて、驚きに満ちている。そして、一つ一つのピースには、思い出がたくさん詰まっていた。未完成であることが、私にとっての完成しているような気さえする。

わたしは子どもの頃の記憶があまりない。色々なことをすぐに忘れてしまう。その少ない記憶の中でも印象的なのは、何か、仕方ないんだなという諦めの記憶だ。
「わたしはこんなもんなんだな」
「誰に言ってもわかってもらえないだろうな」
そういう感情の記憶はしっかり思い出せる。いつからから、仕方のない、わたしの手には負えないことと直面した時、スッと頭が冷えて、全てをそのまま受け止めようとするようになった。そして、社会に期待をすることはよくないことなんだと、あらがわないようになった。

今のキューバは社会主義は、機能していないようだった。
「アメリカにサポートしてくれる家族や親戚がどれだけいるかが、そのまま貧困の差になっている」
カサのおじちゃんが言っていた。

どうしようもないもので溢れている。それでも、ここの人々は一生懸命生きていた。持っているものを与えて、持っていないものはもらったり、時には奪ったり。家族を養うために外貨をどうにか手に入れようとしていた。

キューバ人は、本当にさまざまな人がいる。よく笑う人、全然笑わない人。スリやボッタクリもいれば、親切心でお菓子やご飯をご馳走してくださる人もいる。かなりシビアにビジネスをしている、資本主義な人たちもいた。多国籍で、肌の色など見た目も全然違う。
街には看板がない。ここに行けばこれがある、というものもないし、レストランもやったりやらなかったりする。あまりにもご飯が不味くて驚き、期待せずに食べたら美味しくてまた驚いたりする。

認識をする、ということは、共通点や関係性を探すことだと思っていた。でもそれはここではあまり通用しなかった。
みんな、バラバラだった。あまりにもバラバラだった。特にこの社会情勢の下で、何か一つになったりすることはできないのかもしれない。でも、そのままなのが、きっと美しいのだろうなと思った。

その中でも、一つ共通点があるとしたら、よく叫ぶことだ。最初はそれを見て、少しこわいなと思ったけど、しばらく滞在して、大体は人々の挨拶の叫び声だということがわかった。遠くの人に挨拶をし、すれ違った後もしばらく大声で会話している。車の運転中でさえ、知り合いを見つけると大声で挨拶をしていて、笑っちゃうこともあった。

とにかく家族、親戚、友だち、ご近所さんを大事にしている。
お世話になった全てのカサでは、一日中色々な人々が立ち入っていた。また、仲良くなった人は、必ず家族や親戚の写真を見せてくれた。みんなで、支え合って生きているように見えた。少し羨ましいなと思った。

カサのお母さんは、本当にとてもよくしてくれた。散歩に出かけるときは、帽子を貸してくれ、朝ごはんはもちろん、お昼ご飯も何度もご馳走になった。それまでで食べたキューバでの食事の中で一番おいしかった。
「元気?」
「問題ない?」
「お腹空いていない?」
「コーヒー飲む?」
「暑くない?」
いつもわたしのことを気にかけて、声をかけてくれた。素晴らしい人だった。

「私にはイタリアに2人の孫娘がいてね。そのうちの1人は26歳で、あなたと同じような年齢なの。彼女は世界各国で留学していて、海外を飛び回るのが大好きな子で、あなたといると彼女と一緒に過ごした時間を思い出させてくれるの」
チェックアウトの直前、そういって、何度も何度もほっぺにキスしてくれた。
(よくよく聞いたら、ロシア、アメリカ、ギリシャ、イギリス、中国、そして日本で留学をし、今は弁護士をしているらしい。すごい)
最後の最後で、一組だけピースがはまったような気がした。

日本での暮らしを、物理的に、客観的に思い出すことができるのは、旅のいいことだ。
わたしは自分のことは好きだけど、社会から見た自分のことは全然好きになれなかったりする。
社会とうまく関わってこれたと思うことがあまりない。何かしらが欠落しているなと思うことが多かった。大人になればなるほど、社会という大きなものに、立ち向かう気力があまり起きなくて、可能な限り社会とは距離を置いて、小さく生きていきたいと思っていたことを思い出した。

キューバというパズルを自分なりに完成させたいと思い、狂ったようにキューバのことを調べ、翻訳アプリを駆使していろんな人にたくさん質問した日々。
子どもたちの幸せを心から願い、時に悩んだ日々。
答えのようなものは何も見つからなかった。虚無感は在るものの、でもその時間がとても意味のあることのように思えてくる。その正体は今はわからないけど、日本に帰って、またつまらない日常を送る時、自分に対して無力感を抱きそうになる時、キューバでの日々を思い出す日が来るような予感がしている。遠い遠い国に対して抱いた熱量を、いつか日本での自分の暮らしにも向けられるのかもしれない、と。

この文章は、世界を小さくしてしまおうとする、未来のわたしに向けた手紙なのかもしれない。

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