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メキシコの日々。旅の放棄

旅をして、10日が経とうとしている。

最初の数日は海外一人旅そのものの経験がないので、ずっと緊張していた。すこしハイテンションだった。バスや電車の乗ること、バックパッカーズで寝泊まりすること、レストランで食べ物を注文すること、チップを置いて行くこと。知らない人に話しかけ、質問して、英語でコミュニケーションをとること。

でも、1週間を過ぎてきたあたりから、かなり慣れてきて、そのひとつひとつが当たり前にできるようになった。一人旅がだんだんと日常になった。

だからなのかわからないけれど、最近なんで旅をしているのかよくわからなくなっていた。一つ言えるのは、心を動かされる何かと出会いたいということ。それがきっと、わたしが旅をしている理由なのだと思うけれど、もっと全然違うような気もしている。

メキシコでは、プエルトバヤルタ、プンタ・ミタ、カンクンの3箇所滞在する予定だった。しかし、色々とトラブルがあって、最後の滞在地であるカンクン行きの飛行機を逃してしまった。旅への意欲の落ち着きと、精神的に疲れてしまって、またプエルトバヤルタのダウンタウンに滞在することになった。

プエルトバヤルタは観光の街だ。あらゆるところに色とりどりのタイルが敷き詰められ、壁画が描かれ、パペルピカドがなびいている。教会の鐘の音が鳴り響き、人々が行きかい、ちょっと路地裏に入るとメキシコの人々のちょっと雑な生活が垣間見える。人々はいつもニコニコしている。

一方で、ここはリゾート地でもある。街の一角に高級ホテルがそびえ立ち、その周りには綺麗なレストランやバーが、ビーチにはびっしりリクライニングチェアが並んでいる。それを取り囲むようにお土産屋さんが軒を連ねている。顕著に資本でまわる世界が、どこからかを境に存在している。それが世界の中心であるかのように。そういった場所を歩いていると、なんだかつまらなく、旅で得たい何かからどんどん遠ざかっているように感じるのだ。

そんなこんなで、プエルトバヤルタのバックパッカーズに到着してひと段落しても、どこかに出かける気にもなれず、ベッドでゴロゴロしていた。しばらくすると、下の階から歌声が聴こえてきた。メキシコ人はどこまで陽気だなと思いつつのんびりしていたのだけど、あんまり暇なので覗きに行ってみることにした。

私が見ていることに気づいたら彼はちょっと恥ずかしそうな顔をしてから、そのまま気にせず歌い続けた。彼は小さな犬(シャイニー)を飼っていた。シャイニーが私の方に寄ってきて、膝の上にのってくる。一区切りすると、適当に注いだ赤ワインをもらって、昼下がりに乾杯した。

その宿には、5人のメキシコ人たちが出入りしていた。オーナー兄弟のクリスチャンとスティーブ、彼らの弟子のガブリエル、ホステルの管理人のテルラ、そしてわたしの部屋の下の階に住む、いつもギターを弾き鳴らしているシャビエルだ。

朝起きて朝ごはんをつくっていると、必ずテルラが食べ物を分けてくれる。それはみたことのないメキシコの材料で、わたしは毎回翻訳アプリを使ってスペイン語で食べ方を質問する。
オーナー兄弟とガブリエルは別のアパートに住んでいるのだけど、ガブリエルは毎日のように朝ごはんや夜ご飯を食べに来ている。ご飯を食べながら、スペイン語や日本語を教えあったり、彼の趣味である釣りについて話しては笑い合う。
オーナー兄弟も交代で来ては、旅を楽しんでいるか気にかけてくれたり、色々とおすすめを教えてくれる。
シャビエルは仕事のない日は家でのんびりしている。大抵夕方まで宿で過ごし、太陽が傾くと同時に一緒にビーチに夕日を見に行く。帰りに夜ご飯の材料と、もちろんワインを買って、夜ご飯を作って食べる。そんな他愛もない時間に、私たちはいろいろな話をした。

まるで旅を放棄するように日々を過ごしている。そうすると、不思議なことに宿の人たちたけではなく、休日を過ごしているメキシコ人に声をかけられて、一緒に過ごすことが何度もあった。

「大事なことは、自分の中にどんな言葉があるのかではない。世界に、宇宙に言葉を発すること、発することができることそのものなんだ。たとえ、その言葉が完成していなくても、不恰好でも、取るに足らなくても。たとえ、伝えたいことが何もなかったとしても」

シャビエルが最後の夜に話していた言葉が、忘れられない。

わたしたちは人と関わる時、何か目に見えない想いみたいなものも交換している。こう思われたい、こうであってほしい、嫌われたくない。そういうものを交換し憶測しあっては、上手にコミュニケーションをとっている。

メキシコの人たちと出会った時、握手を交わす時、話す時、交換するものが何もないような気がした。かわりに、あなたとわたしの間にただ風が吹いていて、気持ちがいい。それでいて、自分がご機嫌でいることが一番大事であることを心の底からわかっていて、だからこそ困っていたら助けあい、皆で協力しあってサバイブしている感じがした。(旅中に何度も何度もメキシコ人に助けてもらい、本当にありがたかった)
その根源が、シャビエルの言葉に詰まっている気がするのだ。

特に、何をするわけでもなく時間を過ごす、そういう中で出会うメキシコ人とは、知り合ったばかりなのに、不思議ともう何年も前から知り合って、すごく長い時間を共にしているようで、そんな風に感じるのは初めてのことだった。それは、交換するものが何もなかったからだったんだと思う。

最終日に、街を歩いていると、釣り竿を持ったおじさんに声をかけられ、魚を見たくてついて行った。歩いていると、幾度となく街の人たちに挨拶をしては、軽く何かを話している。彼の友だちには資本主義あふれるリゾート地で働く人々もいた。はじめて、彼らの売り子としてではなく、友だち同士でしか見せない顔を見、会話を聞く。
おじさんは海までの道中で、見たことのない建物に入って行った。びっくりしながらついていくと、そこは古くて広いビリヤード場で、メキシコ人のおじさんたちの溜まり場だった。一人で見てまわったプエルトバヤルタの景色と、おじさんの背中を介して見るそれが、あまりにも違うことにとても驚いた。
今までのものの見方が、なんだか急に浅はかに思えてくる。

おじさんは、リゾート感あふれるビーチで釣りをはじめた。釣りといっても、キャストをして、すぐにくるくる巻いて、巻き終えたらまたキャストして、魚を釣ろうとなんて全然していない。とてもゆるくて、なんか色々と馬鹿みたいな気持ちになって、笑えてくる。
それから堤防に行き、釣り仲間たちにも挨拶して、しばらく楽しそうに話しをしてから、わたしたちはお別れをし、彼はビリヤード場に戻って行った。

釣りはしていたけれど、きっと釣りをしに来たのではないんだろうなと思った。一連の時間を一緒に過ごせたことがとてもうれしく、貴重なもののように感じた。

旅でしか見えない景色がある。また、旅だと見えにくい景色もある。わたしは後者を見たいんだと思う。それは、その土地の人々の働いている、食事をしている、新聞を読んでいる風景。その中に息づいている、人々の営みや、言葉や、喜びだ。どこかの誰かの、「いつもの風景」にまぜてもらって、記憶の一部になりたい。その瞬間に見て、きいて、感じることこそが、わたしの旅の目的であり、わたしのアートそのものなんだと思う。

メキシコの全ての友だちたちから教えてもらった、あの風をふかせながら、きっとこの先も何人もの人々に出会うのだろう。これからも旅は続く。

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