『鬼滅の刃』ヒットに感じた違和感について

もはや説明の必要もなく、社会現象として流行している『鬼滅の刃』。そんなに面白いなら、とアニメを2話くらいまで観たけれど、美しすぎる映像と展開していく視点に酔いを起こして物語への没入感が得られず、早々にリタイアした。(これは4Kを採用した大河ドラマ『麒麟がくる』にも言えることで、鮮やかすぎる映像は目に痛いのだ)
では原作の漫画なら、と手にとったけれど、これも3巻あたりで主人公・炭治郎の底抜けの真っ直ぐさや正義感についていけずダウン。うーん、なんで流行ってんだろ…と思うまま時が過ぎ、最終巻が390万部刷られたと聞いて、これはやはり出版の人間として読まねばならぬと感じた。
で、一念発起して読み始めて、5巻あたりから少しずつ面白くなってきて、10巻を過ぎたあたりからは最後まで一気にいった。多分1日もかかっていない。これがデスノートや進撃の巨人、引き合いに出されがちなBLEACHだったらもっと時間がかかっていたと思う。このわかりやすさやシンプルさも、多分ヒットの理由なんだろう。

一方でいまいち釈然としない。社会現象レベルの作品なのか?その要因は?読んでみてもよくわからなかったのだ。たしかによくできているし、わかりやすくて面白いけど、引っかかる…。
あらゆるヒットの要因が語られているので私が今更言及することはないけど、この引っ掛かりやモヤモヤの正体を探していくうちに気づいたことがある。
3巻まで読んでやめた私の勘は私にとって正しくて、どこまでも主人公たち鬼殺隊の「想い」についていけなかったのだ。

本作では、尽きない命を永遠とする鬼に対し、命の尽きる人間が永遠として繋ぐのは「想い」だとする対比がある。基本的に首を落とさないと死なないほぼ不死身の鬼に対して、人間は脆いしすぐ死ぬ。それを、必ず鬼を倒して平和な世界を手に入れる、という、人間が連綿と紡いできた想いが倒すというのが簡単な筋書きだ。
そのなかで、ラスボスの鬼舞辻無惨は、鬼に喰われるのは災害かなにかだと思え、的なことを言う。私は結構、この論理が腑に落ちてしまったのだ。
鬼というのは多分映画『シン・ゴジラ』(2016)でいうところのゴジラで、災害や理不尽な運命を象徴する。『シン・ゴジラ』も人間の執念や理性がそれを制する話ではあるけれど、『鬼滅の刃』との違いとしては、最終的にゴジラとの共存を選ぶところだろう。受け入れざるを得ないのだ。『シン・ゴジラ』自体は東日本大震災やそれに伴う原発事故をモチーフにされていると思うので、これは実際にその後の日本人が辿った道でもある。
では鬼滅の場合はどうか。原作者は恐らく予期していなかっただろうけど、この作品がヒットした2020年、新型コロナウイルスという理不尽な災いがやってきた。それに伴う景気の不安や職差による生き残り戦もまた、理不尽で、個人にはどうしようもできない災いだったと思う。
『シン・ゴジラ』との対処の違いとして、鬼滅は災いの根絶を誓ってそれを成し遂げる。そしてそのために、「大いなる正義」のためにかなりの人が命を落とす。鬼滅では何度か、「強い体に生まれたのは鬼を倒す使命があったから」だとか「長男だから耐えられた」とか、「強い者が弱い者を守るのは当たり前」みたいな考え方が出てくる。この、社会の求める状態に対してそれを乗り越えられる者ならば多少の犠牲は致し方なし、というのが、たとえば現状の医療体制などとかぶるところがある。
ここで突然だけど、2019年に公開された『天気の子』はどうだったか。『天気の子』では、晴れをもたらすために自己犠牲を選ぼうとする少女、陽菜が最終的に自己犠牲を否定したがために雨が降り続ける世界が起きて、主人公の穂高がそれを肯定する。私は『天気の子』自体はあんまり好きな作品ではないのだけれど、その帰結は新しい時代の象徴なのだなと感じていた。だから、『鬼滅の刃』における逆行が、今の時代の幼さを表したようで受け入れ難かった。理不尽を許せず共存できない、富める者は貧しき者を助けるべき、能力のあるものはないものを助けるべき、という2020年の風潮。これと鬼殺隊の意思がハマってしまったのは、かなり危険なことのように思う。
ヒットする作品というのは、様々な要因はあれど、概ね時代に要請されて生まれるものだろう。『鬼滅の刃』で正義として描かれる主人公たちが選ぶのが、理不尽な災いの完全滅却とそのための自己犠牲だとしたら、それは本来とても悲しいし、別にそんなもの選ばなくていいんだよと言いたい。人間はこれまでだって、人間の力ではかなわないものに敗北して共存してきたし、もし勝てるとして、誰かの犠牲の上に成り立つことを肯定すべきでもない。『天気の子』で得たはずの価値観は、新型コロナウイルスという目に見えない、勝てるかどうかわからない理不尽な敵の前にこんなにあっけなく崩れるのか。

ちなみに少しだけ『シン・ゴジラ』をきれいに言ってしまったけれど、『シン・ゴジラ』も、ある程度の犠牲はやむなしという考えは鬼滅と共通している。結果として共存を選ぶのは、アニメではない実写、リアリティをもつ映像作品としての落とし所だったのかもしれない。庵野監督の元を辿ればエヴァンゲリオンで、使徒を倒す少年少女たちは世界のための犠牲だったしね。
それに、震災から立ち直りつつあった2016年だったから『シン・ゴジラ』はリアリティを伴ったわけで、2019年の『天気の子』で「個人が自分の自由を選ぶ権利」が肯定されたのは、震災からの復興という意味でも新しかった。2014年(世界的には2013年)の『アナと雪の女王』でセンセーショナルに始まった世界の潮流に日本が追いついた。自由を選ぶこと、人間の手でどうしようもできないものとは共存すればいい。2019年にやっと肯定できたはずのそれは、新型コロナウイルスによってたったの1年で消えてしまいそうになっているのか。大きな災いの前にまた、個人が自由を選ぶ権利が損なわれ始めているような気がしてならない。理不尽な運命への怒りが抑えきれないのだ。自分のせいじゃないから助けて欲しい。不幸じゃない人は幸運なんだから、搾取してもいい。そんな時代で息苦しい。
同じくヒットした『鬼滅の刃』主題歌の「紅蓮華」に、こんな歌詞がある。

「誰かのために強くなれるなら ありがとう悲しみよ」

曲にも歌詞にも作品にも罪はないけれど、悲しみにありがとうなんて言わなくていい。そんな悲壮さを背負って人のために戦わなくていいし、がんばらなくていいし、災いと共存する道だってある。
最後まで鬼滅にハマれなかった私は、多分死ぬか鬼になるか選べと言われたら、死にたくないし鬼になるのだと思う。2020年だからヒットした『鬼滅の刃』は素晴らしい作品ではあるけれど、すんなり肯定していいかはわからないし私にはできない。無邪気に、自分が犠牲にならないこと、頑張らないことを選択できる時代になったらよいと思うし、悲壮さを悼みたい。人間の手では敵わないものだって、必ずあるのだから。

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