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2015年5月2日のツイッターメモ

どう考えても「プライド」という感情は不必要だと思う。

いつも成功談やらなんやらが本やらネットやらで「逆説的に報告される」から(ここ重要だと思う)大半の人が間違えてしまう部分で、

なにか素直な自分の熱で、なにか素直に自分から湧いたモノを追求するからこそ、「結果として」やってきたことに自信も湧くし、認められるし、金やら信頼やらそういう「対外的な」価値がやって来るんだと思う(自戒)。

自信とプライドは絶対に履き違えてはならないと思う。

自分なりの全力で、やってきたことに自信を持つことは絶対に不可欠かもしれないけど、それでプライドが芽生えたらその時点で老害クラスタに足を一歩踏み入れることになってしまう。それはどういうことかというと、相対性多様性に理解のある立場から一歩遠のいてしまうということ。


社会的成功を収めてる人の真似しても誰も同じように成功できないのはなんでか。それは先人の行動動機と同じ程度の深い感情や思い入れが自分にないからだと思う。

それは「特段自分がやる理由がない」ということ。自分の中に理由がないから本物の熱もわかない、だからそもそも自分としても続かないし、続いたとして、社会としても信頼や承認は与えてくれない。

「社会的」成功を自分の目的にしてもまず何も出来ないと思う。社会的成功って何?という話になってしまう。議論は一巡して、「やって後悔の無いことをやって生きなさい」ということになる。

だって「絶対的正解」がないから。だからあくまで「自分的成功」をストーリーが内包している必要があるということだと思う。自分としても、社会としても。

社会的善悪、社会的成功失敗のモノサシは自己の善悪、成功失敗のモノサシに何ら影響ないわ。あくまで参考値や。勝負はそれに気づいてからや。それに気付くんに数十年かかったわ。馬鹿野郎な話やで。もちろん自分の善や成功のモノサシが社会的ソレに一致しとったらそれにこしたこたはないけどな。

そういう意味では人殺しが自らのストーリーの中でホンマに人殺しをしようと決めてしたんなら、なんちゅうか、しょうが無い話やなとも思うわ。人は殺さずとも、法律は破らずとも、少なからず大半の人は社会の中で自分のために生きとるんやさかい。

若者の多くはたんに認められたいだけや、っちゅうようなことを先輩がおっしゃってたわ。まさにそうやと思う。ただその素直な感情を間違いだとは言わんと思うで。ただ社会にとって個人の承認欲求は無意味やから、感情やらビジョンやらをうまく調理して社会的接点の中で活かしていかんとアカンわ。大変や。

そういう意味では「強かさ」が社会適合者として生きていくためにいかに必要かを痛感するわ。善悪とは関係の無い世界の話や。ホンマに自分も社会も満足している状態のままやっていくんは大変なお仕事やで。

センスの問題はあれど語学レベルに努力が活きる世界ではあるけどなあ。活動して活動しての中で得た感情と経験が武器になる世界やからな。

角の立った感情やら政治的意見やらをソトで言うんは一般的に勇気のいることや。「相対性に理解のある意見賛同型」「相対性に理解のある意見反対型」「相対性に理解のない意見賛同型」以外の人たちから徹底的に嫌われてしまうからな。少なからず嫌われてエナジー貯めるタイプもいらっしゃるけどな。


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