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好きな写真について #34

スナップ写真のワークショップ開催案内がTwitterに流れてくることがある。『すてきな切り取り方』といった宣伝文句を見るたび、あなたのすてきは私のすてきと必ずしも一致しないのにと思ってしまう。写真をどう撮れば良いか悩んでいる人に対して救いの手を差し伸べているように見えて、実は可能性を潰してしまう恐れがあることを真剣に考えている人は多分少ない。私たちは悩める子羊を救っているんだという意識があるから。残酷だよね。

ボクには写真を教えることなんてできないし、教えてもらおうとも思わない。昔、写真展のイベントで当時は有名だったカメラマンのワークショップに参加したけど、ポートレートは膝下で切ると良くないよというアドバイスをもらった。今もポートレートを撮ろうとすると、呪いのようにその言葉を思い出してしまう。無知だったボクには、とても有益な情報をありがとうと思ったこともあった。だけど今思うと、何も知らない状態で刷り込まれた情報は、記憶から消えてくれないこともあるから、写真を教えてもらうときはある程度判断できる柔軟さは必要だと思う。有名な人が言ったことはすべて正しいという考えなんてさっさと捨てた方がいい。

最後に信じられるのは自分しかいない。こういうと寂しいねと言われたこともある。だけど、自分の人生だ。他人の言葉でつくられた道を歩くのは安全かもしれないけど、そんな生き方をしてたら何のために生きているのか分からなくなる。写真も同じで、誰かの言われたこと、誰かの真似をしていると、上手に撮れるようになるかもしれないけど、『これは私の写真じゃない』という思いが生まれることがある。ボクにはあった。今でもそう思うことがある。写真とはそういう世界であることを忘れてはいけない。偉大な写真家たちが好き放題やり散らかした過去の上で、ボクたちは好きな写真を自分らしさを求めようとしている。無茶苦茶だよね。

どんな写真を撮っても既視感が邪魔する時期もあった。若かった。まだ誰も撮ったことのない場所や構図を探し回り、我先にとInstagramに投稿する。写っている場所が違うだけで、同じ写真は過去にたくさん撮られているのに、そんなことにも気付けないくらい夢中でビジュアルの新しさだけを写真に求めていた。何も新しいものなんてないのにね。それが分かっていても、同じような写真を撮ってしまうのが写真の魅力なんだと思う。『今』を残すという一言で片付けてしまうのは気が引けるし、撮ることに動機が必要なのかも分からない。

撮りたいと思った写真を撮ればいい。

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