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好きな写真について #35

ゴールデンウィークに撮った写真を確認していると、何枚か通行人を写した写真があった。人が居るだけで、街が生きているように感じる。誰もいない街の写真は、人の気配は感じられるけど、なんとなく物足りないというか、寂しく感じることがある。街と人を一緒に撮れば良いというわけでもないから、経験や価値観が加わることで撮影者それぞれが見た街の写真になるんだと思う。

あとになってから気付くことが1年に何度かある。青と白のパラソルは、この写真だけだと、ここに存在していて、ブルーシートや、ホワイトシートと同じ配色でなんだか面白いねくらいの印象しかないが、ボクはこの日のお昼に白と緑のパラソルが、団地の庭に鬱蒼と生い茂る植物の中に埋もれている様子を見ている。最初の写真は、青と白のパラソルよりも、ホワイトシートで体の前側が隠れている人が気になって衝動的にシャッターを切った。久しぶりの感覚だった。天気が良くて、ここに来る前にも好きな写真が撮れていたから、調子が良かったんだと思う。ホワイトシートと何度か書いているけど、ボクはそんな言葉を今ここで書きながら初めて聞いた。気になったからググってみたら、普通に商品名として売られていた。世の中これくらいシンプルだったら、特許を奪い合うようなこともないだろうに。みんな生き急ぎすぎだよ。

ブルーシートといえば、10年くらい前は天王寺周辺に行くとたくさんあった。小さい頃、フェスティバルゲートに遊びに行ったとき、周辺の独特の雰囲気にドキドキしたような記憶がなんとなく残っているが、大人になってからボクが改竄した記憶の可能性もある。今では青い芝生に変わってしまった。青空の下で、将棋していたおじさんは、今もどこかで将棋をしているんだろうか。開催するのか、しないのかいまだによく分からない大阪万博が近づいてくれば、さらに街の雰囲気が変化するかもしれない。

社会権って、何やねん?と、社会の授業で習ったときに思った。健康で文化的な最低限度の生活を営む権利。令和になっても、これをどう解釈すれば良いのか分からない。憲法だから、誰が読んでも同じように解釈されると思っているけど、現実はどうなのだろう。ただ、ボクはボクだから他人がどう感じているかなんて知れないし、知ろうとすることが間違っている。だけど、相手の気持ちを考えなさいと、至る所で口を酸っぱくして言われている。梅干しが嫌いなってしまった人もいるかもしれない。

街で人を写したとき、ボクとその人との間に、わずかではあるが繋がりができる。写真を見れば、あの日あのときここに一緒に居たことがわかる。相手はボクのことなんて記憶に残っていないだろうし、この場所へ居たことすら忘れているかも知れない。ボクが一方的に思っているだけだ。写真って孤独だし、それが写真だ。相手に喜んでもらいたいという気持ちは、撮影者自身が喜んでいないと生まれないでしょ?


写真や旅のことだけじゃなく、今ボクが気になっていることをnoteに書いています!読んでいただきありがとうございます!