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好きな写真について #25

心がザワザワしている夜。そのまま言葉を吐き出してはいけない。それなのに今朝も通勤電車で毎日noteを書かず、kindleでニーチェを夢中で読んでいた。背中には、ブレイディみかこさんの「他者の靴を履く」が入っているのに、今朝はそんな気分だった。作業机には、単行本版もあるけど、いつでもニーチェに触れられるように、amazonポイントでスマホにお招きした。「ツァラトゥストラかく語りき」。ボクが読んでいるのは河出文庫版だ。黄色い背景に鳥のシルエットが描かれた表紙を見た瞬間にときめいた。適当にページを開いたときに出会う言葉の数々は知らない世界を教えてくれているようで、実はボクが経験してきた様々な場面を説明しているように感じることも多い。倫理の授業で、4択問題の正解を選ぶための勉強しかしてなかったことを恥じたが、今こうしてちゃんと向かい合えるようになった基礎を作ってくれたのは倫理の先生だ。名前は忘れてしまったけど、見た目や話し方、そしてビジュアルは、サザエさんに出てくるノリスケさんみたいな人だった。数学の過去問を解かずに、倫理の授業を受けられたのも、教壇に立って漫談を挟みながら話をしてくれたノリスケさんが居たからだ。「神は死んだ!」と、嬉しそうに黒板にピンク色のチョークで書く背中は、ぼんやりと記憶に残っている。絶対に書きながら、ニヤニヤしていたと思う。普段からニコニコしているノリスケさんだったけど、たまに真顔で厳しく諭してくれたような気もする。理由は忘れてしまったけれど、「ラーメン屋で出すお冷はキンキンに冷やさなきゃダメだ」とか、そんなどうでもいいような話だったと思う。

前作から1ヶ月ぶりの「好きな写真について」。何度か書こうとしたけれど、今日のように書き始めると写真と関係ない話になってしまい、仕方なくタイトルを変えて投稿していた。だけど、今日はもうタイトルを変えない。ここまで書いた話は、好きな写真を語る上で、必要な内容だからだ。読みながら気付いてくれた人が、もしかしたらいるかもしれない。順に解説していきたい。

心がザワザワしている夜。そのまま言葉を吐き出してはいけない。

「好きな写真について #25」より

これは写真を撮るときにも言えることだ。心の状態は写真に写ると言われる。ボクも写真を見ながら、そう思うこともあれば、そんなわけないとも思う。正直どちらでもいい。感情をファインダーから見える景色と共有することが重要だから。感情をそのまま言葉に出すのではなく、写真を間に挟むことで冷静になれる。美しい夕焼けを展望台から眺めながら、「きれいだな」とひとりで呟いた経験がある人なら分かると思う。周りでキャーキャー言いながら、同じ景色を見ている人はカメラなんか構えていない。そのときの感情を直接表現しているわけだ。一方で窓に張り付きながらカメラを構える者たちは、空の変化に集中し、美しさを心の中で噛み締める。ボクはそんな気持ちにさせてくれる写真が好きだ。

いつでもニーチェに触れられるように、amazonポイントでスマホにお招きした

「好きな写真について #25」より

好きなコンテンツは、媒体を変えて持っていたい。好きな写真はプリントでも見たいし、スマホでも見たいし、パソコンでも見たいし、大きなモニターでも見たい。そう思うことは何も不思議ではない。媒体が変われば見え方も変わる。文章も写真も同じ性質を有していると思う。本当に大切なものならひとつあれば十分なはずなのに、モノに溢れた社会に慣れてしまったせいで感覚が鈍っているのだろう。好きな写真が一番好きだと思える状態で残すことは、ボクに与えられた課題のようだ。写真の声を聞き、それに応える。写真家としての未熟さを感じるたびに、想い描く理想の姿がアップデートされていく。この感覚がたまらなく好きで、そんな気持ちにさせてくれる写真を2023年はまだ撮れていない。

「神は死んだ!」

「好きな写真について #25」より

写真の神様が、居るとか、居ないとかではなくて、信じたいとボクは思う。「こんなに美しい景色に出逢わせてくれてありがとう」という経験を何度もしてきたから。死んだなんて言わせない。「写真の神様に俺はなる!」。書いてから写真の神様って、どんな存在なんだろうと考えているけど、運命をコントロールするチカラがなければなれそうにない。だけど、運命を引き寄せるチカラなんて、意識がないだけで皆が持っているようにも思う。誰でもいい写真が撮れるのも同じ理由なんだと思う。

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!!

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