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<書評>「イタリア古寺巡礼」

イタリア古寺巡礼

「イタリア古寺巡礼」 和辻哲郎著 岩波文庫 1991年

出版年は20世紀後半だが,著者がフランスからイタリアを旅したのは,1927年12月からの3ヶ月間。1927年は昭和2年。また,第2次世界大戦の足音は聞こえてきていないが,イタリアではムッソリーニが政権を把握し,ドイツではヒットラーが政界に登場しだした頃だ。

そのため,戦前の古き良き時代のヨーロッパの風景と,日本からの「洋行者」の見聞録になっている。しかし,そこは日本を代表する哲学者・美学者の記録である。同じ風景ひとつみても,通常の物見遊山の観光客とはまったくレベルの違う,非常に深い観察眼を持って記録している。もちろん,芸術作品への評価は,それだけで優れた美術評論になっている。こうしたことが出来るのは,著者の持つ深く広い教養のなせる技であり,一介の凡人には及びもつかない領域だろう。

一方,戦前のヨーロッパの風景が垣間見える箇所が,意外と面白い。パリでは「常磐」という日本レストランで食事をしたという記載があったので,ネットで当時のパリにあった日本レストランを調べてみた。「常磐」以外にも,「牡丹屋(旅館も兼ねていた)」,「都」などがあったそうだ。話はそれるが,第2次世界大戦で,パリが連合軍に陥落する直前,まだそこにいた日本人は日本大使館員に引率されて,列車でベルリンに向かった。この際に,「牡丹屋」と「都」が,逃げる日本人のために弁当を作ってくれたそうだ。しかし,連合軍の攻撃により列車の出発が遅れ,季節も初夏であったことから,大事に残していた弁当が腐りかけてしまった。そこで,日本人達はしかたなくパリの駅ホームに弁当を廃棄した。ところが,周辺にいるフランス人達が,腐りかけたのも気にせず,すべて持ち去ったそうだ。

ここに,既に戦前に証明された日本人―特に当時パリにいた日本人は皆教養高い人でもあったから―の,高い気品と優れた食文化というのを実感する。戦後,戦争に負けたこともあって,日本人はヨーロッパ人とヨーロッパ文化を盲目的に畏敬することを洗脳されてしまったが,現実には,「優れたフランス料理」というのは,後から作られたイメージに過ぎず,実際には戦前から既に和食と日本文化が,パリの人々を凌駕していたことがわかる。

話は戻り,私は2018年10月に,ローマ,フィレンツェ,アッシジを,2020年1~2月にかけて,マラガ(スペイン,「カルメン」に出てくる舞踊マラゲーニャの発祥地,ピカソの生家がある古い港町),ニース,モナコ(水族館のみ),マントン(ラグビーを最初にプレーしたウィリアム・ウェッブ・エリスの墓がある)を旅することができた。この時の見聞した印象と,本書に書かれている鉄道の沿線風景や街の印象,さらに美術作品の描写を読んでいると,旅行した当時の記憶が蘇り,また約90年前の情景と現在の情景を頭の中で比べることができて,非常に楽しかった。これは,実際に旅行したことからこそできるものなので,まさに「百聞は一見に如かず」ということだろう。

読み進めて(再読して)いくうちに,つぎつぎとイタリアの風景が浮かんできた。特にアシジの箇所は,得も言われぬ懐かしさと嬉しさの複雑な感情に襲われ,実際に読み進めるのに少し時間がかかった。すぐに読んでしまったら,もったいないように思えたからだ。そして和辻が,「気持ちよいところなので,気に入っている」と書いているくだりに,とても嬉しくなった。実際,アシジの空気は清涼で,そして何か気持ちがとても軽やかになる,不思議なものがある。それはまた,とても心地よいものだ。もちろん,アシジで飲んだビールは最高だった。

それから,フィレンツェの箇所で,ウフッツィ美術館を筆頭に「見るもの(芸術作品)が多すぎて困る」と述べているところが,フィレンツェの街を良く表現している。フィレンツェは,アルノー河とポンテヴェッキオを中心に,街自体が美しい芸術作品に思える。ここに住んで,毎日美術作品も見て暮らしたいという,願望が抑えきれない。

もしフィレンツェに住んだら,シエナ,ラヴェンナ,ヴェローナを泊まりがけで旅したい。もちろん,ラヴェンナのスクロヴェニ礼拝堂のジョットーをゆっくりと鑑賞したい。私のイタリア(芸術)体験は,まったくの未完成なのだ。

イタリア本土の記述も楽しかったが,シシリア島の箇所も興味深かった。たんなるイタリア文化ではなく,ギリシア文化やローマ文化を色濃く残すこの島には,ぜひとも旅してみたいと思わせるものが,非常に沢山ある。できれば,フィレンツェから,和辻のように列車に乗ってゆっくりと旅したいものだ。

思えば,私の尊敬する学者林達夫も,戦後のことだがイタリアを車で周遊し,その記録を同行者がまとめた本がある(田之倉稔『林達夫・回想のイタリア旅行』)。いわば林達夫版「イタリア古寺巡礼」だ。一般にイタリアは物見遊山の対象となる観光地とされているが,和辻や林のような深い教養と鋭い観察眼のある者にとっては,自らの心身を心地よく刺激し,リフレッシュしてくれるような,至高の癒やされる領域なのかも知れない。

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アッシジの聖フランチェスコ教会入口

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アッシジの聖キアラ教会遠景

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バチカン・サンピエトロ教会

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