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出場漫才師たちにフルベットして勝ち切ったザセカンド

M-1とは全く違う軸を作り上げ、漫才師の一位を決めるお笑い賞レース。

見事にやり遂げ、周囲やネット上の評判等々を踏まえても、これは大成功としか言いようがない。
新たな漫才賞レース、ザセカンドは非常におもしろかった。

この番組成功の要因を多角的に考えることは可能だが、大きく言えば一つに集約される。

出場した漫才師8組に番組の命運をフルベットしたからに尽きる。

まさしく、ありとあらゆる無駄を削ぎ落とし、ネタをたっぷり見せた。見せ続けた。

しかもネタ時間は6分。今の基準で考えれば相当長いと思われる可能性は高い。
だが、中堅からベテランしか出場できないルールだからこそ、おもいきった勝負に出れる。

きっと観ていて視聴者は退屈しない。
6分のネタであろうと、決勝までいけば同じ漫才師が3回漫才をやろうと、きっと退屈させないであろう。
出場漫才師の芸歴を踏まえれば、おもいきってこの方向に踏み出せる。

そして、その勝負に打ち勝った。
当たり前の話かもしれないが、M-1とは漫才自体のレベルが違ったと言っていいだろう。結果として6分は全く長くなかった。

芸歴を積み重ねることの凄さと大切さを思い知る大会だった。芸事における場数や経験値は最大の武器だと再確認した人も多かったと予測する。

M-1は出場資格のルール上、大抵の出場漫才師が若手になるので、漫才自体には初々しさや粗さがある。
もちろん、若さや経験不足ゆえのフレッシュな魅力もあるが、それだけを連続で見せられるのは番組のクオリティとして辛い場面も出てくる。

だからこそ、M-1にはレジェンド審査員が存在した。
いつしかテレビ番組としてのM-1グランプリは審査員ショーとなり、審査員が初々しい荒削りの漫才師たちに光を与える存在となった。

M-1は番組の命運を審査員にフルベットしたことにより、日本で最大の権威を持つお笑い賞レースとなったのだが…もちろん、そこは諸刃の剣。

あまりの影響力の大きさゆえに、もはや純粋なお笑いなのかどうかすら判断がつかなくなった。
M-1が芸人の人生を変えることは間違いないのだが、シリアスに人生を変えられると前に打ち出しすぎたことによって、影響力とは裏腹にお笑いからは遠ざかる。

そこにあるのは裏側の苦悩やドラマをドキュメントとして描きすぎた一長一短である。
芸人やお笑いを崇高なものとして世間が捉えることは非常に危険であり、歪みが蓄積する。
しかし、その一方で、崇高な競技として漫才を描いたことによって大会の格が上がったのも事実。

ここの塩梅は本当に難しい。
お笑いは本来バカバカしく人を笑わせるものであり、裏側に潜む意味に真顔で迫ることは明らかに不自然。笑いと食い合わせが悪いのは言うまでもない。

行き過ぎてしまっては笑いとして本末転倒。
M-1語りをする芸人なども増え続け、空前の評論芸、分析芸ブームとなってしまった。

ハッキリ言って、大会用に傾向と対策などを立て始めてしまっては笑えない。お笑いは大学受験や就職試験ではないのだ。
そんな計算を立てられない向こう見ずな生き方こそが面白い芸人の本来の姿。

だからこそ、漫才師の漫才のみにフルベットしたザセカンドは光ったのだろう。
別に笑いに意味なんてない。大会への傾向と対策もない。プロの審査員もいない。苦悩やドラマより漫才だけを長尺で見せる。

芸能人の観覧ゲストなども入れない。番組の放送尺は長くとも演者は最小限かつ盤石。良い環境を整えて出場漫才師たちが板の上で漫才さえやればいい。
視聴者は手練れの漫才師たちによる、笑えて飽きない漫才で勝負するところが観たかったのだ。

勝敗を決めるのが会場にいるお客さんであったことも様々な意味合いで功を奏した。
近年はSNS等々でプロの審査員を審査する流れが恒例になっていたが、ある意味その流れに対するカウンターパンチとも受け取れる。

じゃあ、君らがやれば?

結果的に、普通に観てる側にも責任を持たせたのだ。
生放送中に審査したお客さんの感想などが入り、正直なところテレビ番組としては間延びしていた。
だが、顔こそ出さないにしても、ネタの感想などを生放送で言うことによって、ちょっとした審査員の擬似体験を彼ら彼女らはしている。

これをすることによって、人は無責任に文句を言えなくなる。ぽりぽりポテトチップス食べながらパンツ一丁でiPhoneいじりながらTwitterとかで文句言うてる人たちに一石投じる効果を感じる。

影響力あるプロの立場でオープンスコアでお笑いを審査することはあまりに難しすぎる。場合によっては一生の恨みを買う場合だってある。
ゆえにやりたがらないし、やらざるをえない場合の覚悟は想像を絶する。

お客さん側が点数を入れるスイッチを押す役目だけではプロの審査員の苦しみなど微塵も理解できない。
感想や講評や私的な言い分も込みで審査員であり、「あなたがその点を入れた理由を教えてください」
そう問われて答えることにより、審査する苦しみの0.1%ほどは理解できたはず。

つまり、ザセカンドの審査方法は時代を先取ったとも言える。
国民の全員がスマホを所持し、無責任に文句を言うのが当たり前となった今の世の中に対し、一つの答えを導き出した。

素人だろうが誰だろうが
公の場所で何か言うからには言葉に責任持てよと。。。

いつしか、こんな当たり前のことが分かりづらくなった大ネット時代だからこそ、お客さんが審査員となったのは消去法かもしれないが大正解だった。

全てのピースがガチっと噛み合ったからこそのザセカンドの成功であり、やはり何をやるにしても軸を固めることが1番大切なのだと改めて理解できた。

何をしたいのか?何を見せたいのか?どこに届けたいのか?どこに重きを置くのか?何が今求められているのか?

時代を読み、空気を読み、
あれもこれもと取りにいかず、一つの方向性へと軸を定め、覚悟を決めてそこにフルベットする。
やってみるまで吉と出るか凶と出るかは未確定だが、ブレなかった信念の先に成功はある。

これは一つの勉強となりました。

死者に鞭打つことは可哀想ではありますが、R-1にはそれがなさすぎた。。。

時代を読めない、空気も読めない、夢がないと散々バカにされ、挙げ句の果てにはヤラセすらも疑われ、審査員含め出演者全員を損させる。

どんだけポンコツな賞レースやねん!?とイジられる可愛げすらもない。ここまでくれば最悪の意味で笑えない。
結果、目を閉じて耳を塞いで嵐が過ぎ去るのを待つことしかできない。

クリエイターとしての最低限のセンス。
ここにベットするという揺るがない信念。
その2つがないなら、どうすればいいのか???

せめて誠実に実直に番組作りと向き合って
上っ面だけじゃない愛を持って演者とも向き合う。
何もないなら、残されたものは本気でそれしかない。

それくらいなら誰でもできそうだと思いがちですが
実際それが1番できないので、時すでに遅し。

R-1には人間の血が通っていない。

人間らしく生きることとは
誰かを信じることである。

ザセカンドは長く漫才をやり続けている漫才師たちの力を信じたのだ。

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