『ドーパミン中毒』【基礎教養部】

本記事は、J LAB基礎教養部の活動の一環で作成されたものであり、Hiroto氏の記事を受けた返答的な意味もあります。

この記事を書き終わって、やっぱり後で消したくなる記事になってしまったなと思った。心の叫びを吐き出しただけになったし。まあ数年後に読み返して、微笑ましくなれればそれは成長かな。

僕の依存症

今ここでハッキリと(自分自身のために)認めておくが、僕はいま完全に恋愛依存症である。恋愛に依存している。恋愛していないとやってられない。

このことに気づいた(が気づかないふりをしていた?)のは恐らく2022年の3月ごろだ。「絶対に好きになってはいけない人」を好きになってしまったときに、ああ、僕は誰かを好きにならないと満足できないんだなと思ってしまった。

以下、これまで僕がどのように恋愛に依存してきたかを語り、ついでにタイトルに書いている本『ドーパミン中毒』の内容と絡めて話をしようと思う。

ただし、申し訳ないが内容が内容なので全てを話すことはできないため、曖昧な表現を用いることがあるかもしれない。ご了承いただきたい。

きっかけの話

以前、恋愛の話と称して以下の記事を書いた。

これは2020年大学生当時にバイト先の同僚に恋をした時の話であり、まあ結局失恋したのだが、僕はこの時に初めて人を好きになったという感覚を得た。

「人を好きになることと、ついその人を目で追っちゃうことは同値だよ笑」なんてイタイことを言っていた記憶があるが、そんな恥ずかしいことを言っちゃうくらいには僕にとっては初めての感覚で、自分自身人間としての成長を実感した。

高校生の頃までは、ただ性的目的を果たせれば良いという(クス男みたいな)思考で交際をしていたため、その時は恋をするなどという気持ちではなかった。

大学生になって初めて恋に落ちたその時から、僕の気持ちは晴れにも大雨にもなった。笑顔で話しかけてくれた時は一生この幸せが続けと思ったし、その子が先輩に取られたときはこのまま死んでしまいたいと思うくらい落ち込んだ。

おそらくその時に、僕は生を実感してしまったのではないだろうか。生きていることの喜びではない。「生きてるなー!」と感じてしまったということだ。

それまでの人生、これといって何も成し得ず、父親は死に、大学受験にも失敗し、それなりに楽しいこともあったが、おそらく自分が想像する以上に人生とか生きることについて悲観的だったのだろう。その頃から「何のために生きているのだろう」と漠然と考えるようになっていた。

そんな中、突如もたらされた恋という新感覚、感情の起伏、生きているという実感のようなもの。人生に彩り・豊かさが追加され、それがいつしか感情を動かすための刺激となって欲してしまうようになった。生きるための必要な成分が恋愛になってしまったのだ。この人のような、刺激を与えてくれる人と共に過ごしたいと思うようになった。

ただその時にはまだ、そのことを自覚していなかった。

そして深刻化

2020年に初恋からの大失恋があったその1年後、僕は新たに恋をすることとなる(なおその1年の間はずっと落ち込んでた)。

2022年初頭、僕はその人と出会った。小動物のような愛嬌のある人だった。

初めはその人が僕を気に入ってくれて、積極的に話しかけてくれるようになった。日常生活であったこと、悩み、勉強、様々なことを話してくれて尋ねてくれて、仲良くなった。まさに僕の日々の生活を綺麗な色で彩ってくれたわけで、好きになるのは一瞬だった。

問題は、その人は「絶対に好きになってはいけない人」であったということだ。もちろん法律、規定で恋心まで制限されているわけではない。倫理的にアウトということだ。これ以上は言えない。

それでも恋心は止められなかった。その人に頼られるのが嬉しかったし、別の男と喋っているのをみて嫉妬をして辛い思いをしたし、最終的にものすごい勢いで冷められて悲しい思いをしたが、その約1年間はとても「生きてる」心地がした。

そこで初めて、僕はそうした刺激を得るために(危険さを孕む)恋愛に依存していることを自覚した。その人への異常な執着から、そう思わざるを得なかった。

ここから現在に至るまで、さらに抜け出せなくなる。

現状分析

さて、2023年初夏、僕は去年と同じような恋をした。またしても「絶対に好きになってはいけない人」を好きになった。これは現時点(年末)まで続いている。

今回は更に強烈な刺激となっている。具体的な事実は伏せるが、快感、幸福感、嫉妬、悪意、謝意……今まであまり感じなかった感情がたった半年ほどで目まぐるしく湧き起こった。

現状をまとめておく。

僕は、生きる意味を見出せずにいて、あまり積極的に前向きに生きたいとは思っていない。でも死ぬことはできない。単純に怖い。

恋愛が生きる意味になってしまった。今一番感情を揺さぶってくれるのが恋愛である。そのことが今生きていることを実感させてくれる。感情を揺さぶってくれる人と一緒にいたい、じゃあそのために生きるか、となった。

その人とはほぼ毎日やり取りをしているし、夜は通話もしている。楽しい時間もあれば、重苦しい意見のぶつけ合いをすることもある。

相当依存していると思う。相手の時間を拘束している。行動も多少制限してしまっている。かなり迷惑をかけている。

引き返せるのか?依存を断ち切れるのか?そもそも普通の恋愛ってなんだろう、僕は普通じゃないのか?

という自分との葛藤や世間一般とのズレを感じている。

依存を断ち切れるか、あと感想

そもそもこの依存は断ち切らないといけないのか、と言う問いは、自分では考えたくない。ただ恋愛しているだけだ。恋愛が楽しいだけ、何が悪い!と言いたい。

なのでまあ、ここからは不本意ながら、これが依存だとして、断ち切らないといけないとして、じゃあどうすれば良いのかを考える。

断ち切るために本書『ドーパミン中毒』にある方法を採るなら、おそらく「物理的なセルフ・バインディング戦略」が良いだろう。

一切連絡を取らない、会わないようにする。ただそれだけ。それを、最初の地獄のような数週間を耐えて、1ヶ月後にはスッキリ、らしい。

それはつまり、好きな人への関心を失うということだろうか?好きじゃなくなるということ?好きでいることすら断ち切らなければならないのか?結局そこに行き着く気がする。

恋愛って難しい。特に僕の場合は100%全力で相手を求めてしまう。それが生きることに繋がってしまったから。この繋がりを切らないといけない理由が見当たらない。死ねと言われている気がして。

でもどうせ死ねない。自殺ができるほど勇敢ではない。かといって無為に人生を生きたくない。何か「これのために生きたい!」と思えるものがほしい。

みなさん、何を糧に生きてるんですか。

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