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まちづくりとアナキズム その1

3.11からの十年間。私たちの社会は今どうなっているのか。

あの瞬間に、私たちはいつ死ぬかわからない、いつ死んでもおかしくない瞬間を感じた。

だからこそ自身のやりたいことをやる。大切にしたいことは何かを考えるようになった人が周りでは増えた気がする。

終身雇用も全てではなくなりその人がその人らしく生きていけるかどうか。そして、そんな生活ができる状態も今の社会かもしれない。 

一番は国が今までできていなかったことが見えてきた。特にこの数年。コロナ禍に対して、政府や国が全部なんとかしてくれるわけでない。

コロナになっても自己責任、病院に入れられないから、家にいろ。そのまま悪化してなくなった30代の方も東京にいる。

あるいは国から税金が取られる。その税金は、なぜか私たちのために使われない。ふざけるな。だったら、自分たちで、助け合って道路の補修をする。断裂した水道管を付け替える。

何でもかんでも、国家とやらにお任せしていると確かに、楽である。人生も、自分たちの共同体も、国家に、お任せ。しかしお金が取られていく。収奪されていく。盗奪されていく。国家は超えていく。私たちは飢えていく。お任せしていれば、ある意味では何も考えなくていい。何も考えずに、気づけば、すっからかん。

『アナキズム入門』より

今、僕らが一人ひとりが自分らしく生きていくこと。自分の人生を自分で歩む

そんな生き方ヒントがアナキズムかもしれない。


アナキズムとは?

アナキズムは、権力による強制なしに人間が互いに助け合って生きていくことを理想とする社会。
この時重要なのが、「たがいに助けあって生きてゆく」こと、つまり、「相互扶助」鶴見俊介

鶴見は人間が互いに助け合って生きていくことを理想とする社会と定義している。ポイントは、権力による強制なしに、だ。

「アナキズム」は「無政府主義」と訳される。なんだかきな臭い、あやしい響きがある。でも、ここまで国の存在があたりまえになった時代のアナキズムは、国家に囲まれた自分たちの生について立ち止まって考えてみる、ひとつの態度のようなものだ。 『ミシマ社の雑誌 ちゃぶ台Vol.5 「宗教×政治」号』 p51
僕らが常識だと思っていることの多くは、本当にそうなのか、と問いなおすことができる。現代のアナキズムは、その問いかけを可能にする視点なのだ。『ミシマ社の雑誌 ちゃぶ台Vol.5 「宗教×政治」号』p54
ぼくらは問題が起きたら、すぐに行政や警察などに頼ってしまう。知らないうちに問題の解決を他人任せにばかりしている。『ミシマ社の雑誌 ちゃぶ台Vol.5 「宗教×政治」号』p56

強制があると僕らは楽だ。思考停止してても従っていればいい。

自由には孤独と責任が付きまとうからだ(エーリッヒフロムが『自由からの闘争』で述べている)。

自由を求めているようで、強制されたり、支配されていることが楽になっている。

その代わりに、依存が生まれたり、自分という存在が蔑ろになっていくリスクもある。


いまアナキズムを考えることは、どうやったら身の回りの問題を自分たちで解決できるのか、そのために何が必要なのかを考えることである。国家の制度や大きな仕組みに頼ってばかりいると、その責任や能力が自分たちにあることすら忘れてしまう。『ミシマ社の雑誌 ちゃぶ台Vol.5 「宗教×政治」号』p56
なんのために、ぼくらは生きているのか、働いているのか。どんな社会で子どもを育て、仲間と共に暮らしていきたいのか。アナキズムのそもそもへの問いかけは、必ずしも自分の内なる思いや身近な他者の生きる日常が既存のルールと一致しない現実をあぶりだす。そのとき、僕は何に真面目であるべきなのか?
 誰かが決めたルールに無批判に従うことと、大きな仕組みや精度に自分たちの生活を委ねて他人任せにしてしまうことはつながっている。
 アナキズムは、そこで立ち止まって考えることを求める。自分たちの生を見つめなおし、内なる声に耳を傾けろと迫る。「そんなことやるために生きているの?」と。『ミシマ社の雑誌 ちゃぶ台Vol.5 「宗教×政治」号』p70-p71 

自分たちの生を見つめなおし、内なる声に耳を傾けろと迫る。「そんなことやるために生きているの?」と。

僕が僕らしく生きていく。その上で、今起きていることを、国や大きな仕組みのレベルから再度問い直し、自分のうちなる思いや、大切な仲間と生きていくために立ち戻るための態度がアナキズムなんだ。

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