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書くことは、素直になること
エッセイを書かなくなってしばらくになる。
毎週エッセイを書いていた頃は、それはもうネタ探しに苦しみ、なんとか絞り出して書いていた。連載が終わってからは正直、ホッとした。もう追われなくていい。これからは好きなことを好きな間隔で書いていい。
そうなったらなったで、全く書かなくなってしまった。そんなものだ。でも、あの頃僕は、ピアニストが鍵盤に手を置いたら旋律を奏で、外科医が糸を持ったら結紮してしまうように、キーボードに手を置いて書いていた。ネタさえ一つ決まれば、手指は勝手に話を紡いだ。ある時は北に向かう新幹線の車内で、ある時は六本木の超高層ビルの最上階で、またある時は白衣を着ていた。
今でこそそんなふうに書くようになったが、これはいつ頃からだろうか。昔は一文書くのも、一段落書くのもふうふう言っていた。たくさん文章を書いたから、文章を書くスキルが自然と身に付いたのか。
そんなことはないように思う。文章を書くスキルなんてものは、文章書く上での10パーセントくらいしか占めていない。あとの90パーセントはなんだろう。
残りの90パーセントは、素直に書くことなのだろうと思う。素直とは、自分が思ったとおりに、誰にもどこにも気を遣わずに、ということ。正直に、とも違うし、正確に、とも違う。
友人が何とかと言って、不愉快だった。前を歩く女の香水の匂いに惹かれた。勝負に勝って、とても満たされた。人の成功を羨んで、嫌な気持ちになった。こういうことを僕らは日々100も200も思うわけだけど、ふつうはそれを人には伝えずに暮らしている。
これを丁寧に切り取って、なるべく素直に事象と感情を書く。これが書くということなのだと思う。僕は100個くらいものを書いてはじめて、素直に書けるようになった。100個も、思っていないことを書いていたんだから大した詐欺師だ。
とても不思議なのだけれど、この素直さというのはどういうわけか読み手にバレる。なぜか伝わってしまうのだ。言葉の端々や、ちょっとした単語の一つに現れるんだろうね。
で、書きものをするようになった始めのころは、この事実を知って驚愕し、まずある方向に行った。その方向とは、いかにバレないように本心ぽく書く技術を手に入れるかということ。今思えば浅はかで恥ずかしい限りなのだが、その頃は本当にそれが「書き手の持つべき技術」だと信じていたのだ。
しかし、もちろん読み手に卑しさは伝わっていた。僕の書くものはさほど読まれなかったし、誰の心にも杭を打たなかった。もしかしたらこういう詐欺師的手法を突き詰めて素晴らしいものを作る人がいるのかもしれないが、僕にそんな技術はなかった。
そのことに気づき、方針を変えた。つとめて素直に書くようにした。
書くということは、つまり自分という人間を開陳することだ。それは科学的記事でもエッセイでも小説でも同じだろう。どこそこで生まれ育ち、カレーは中辛派で、犬より猫が好きな、腰痛持ちの自分という人間を提示することだ。
そのことに気づくまで100本かかった。でも気づいてからは、書くことがとても楽しくなった。書くことで、つまり手指が打ち付ける文字で、自分という人間を知ることが出来るからだ。知ったことでまた、書くものは変わる。そしてまた書いたものが、自分を理解させる。その往復を何万回と繰り返して、素直さが研ぎ澄まされていく。
その意味では、書いたものは誰にも読まれなくてもいいのだ。職業作家で無い限り、日記でいいのだ。一輪挿しの赤いガーベラが置かれた食卓で、深夜にぼんやり読み返せば十分なのだ。
そう思っていたのだが、さらに不思議なことには、素直に書くようになると以前より途端に多く読まれるようになった。ありがたい感想なんかももらうようになった。ああこれだったのか、書くということは、と思った。
これからも、素直に書くことを続けたい。
そして飽きたら、あっさり辞めてしまいたい。
そう思い、私は書き続ける。