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My First Note on note: 「書くことは考えること」と「制約の大切さ」

今年やりたいことの一つに、「文章を書く機会を増やす」ということがあり、noteを始めてみることにしました。
ゆるゆるとになるとは思いますが、研究活動のことや教育NPOでのお仕事のことなどを書いていこうと思っていますので、宜しくお願いいたします〜!
とりあえず一発目ということで、誰も興味ないかもしれませんがnoteを始めようと思ったきっかけを書き記しておこうと思います。

どうして始めようと思ったのか

昨年から大学院の博士後期課程に進学し、今までとは違って「論文」という形で文章を書く機会が出てきました。論文を書くのはまだまだ苦手でとっても大変なのですが泣、そのことによって「書くことで自分の考えが前より良くなる」ということをすごく実感できるようになってきました。書いてみることで自分が何をわかっていて、何がわかっていないのかが見えてくる。ここがすごく重要なポイントだなと思っています。

研究活動を進める中で、自分の考えを外化して、そこに対して違った視点からのフィードバックや問いをもらって相互作用を働かせることが、学びを進める上でとても有効だということも、より実感を伴ってわかってきました。以前は、文章を書くときってなんか「所謂ちゃんとした正解的なもの」を書かなきゃいけないみたいな固定観念?にとらわれてしまっていたような気がするのですが、現時点での自分の考えを書いて出してみて、自分でも考え直して、他者からも反応をもらって、また考えて、、っていうサイクル自体が大切なんだなと思えるようになってきました。それで、考えるための手段として書くことをより積極的にしていきたいなと思うようになったのです。

上述の通り、基本的には「自分のために書く」というスタンスなのですが、もう一つの理由として、単純に自分が取り組んでいることや学んだことの発信もしていきたいなというのがあります。以前(数年前まで)はFacebookに、時々自分の振り返りのような文章をポストすることもあったのですが、最近はそもそもあまりFacebook自体見なくなり、投稿からも遠ざかっていたので、それに伴って発信の機会も減っていた気がします。
一方、去年の夏くらいにふと思い立ってtwitterの方でちょこちょこツイートすることをし始めたところ、自分の研究領域である学習科学に興味を持って連絡をいただけることなんかが最近増えてきました。(大した発信はできていないのにありがたい)
学習科学は北米で始まった新しい学問領域ということもあり日本ではまだまだマイナーですが、「人はいかに学ぶか」についての研究は、教育を考える上でとても重要な示唆を与えてくれる学問だと思っていて、もっと多くの人とその知見などをシェアしていきたい気持ちがあります。
また、Teach For Japanでの活動についても、もちろん団体オフィシャルのメディアで様々な発信がこれまでもされていますが、自分の言葉でも発信していくことで、より多くの方と協働していけるようにするための土台を作っていきたいと考えています。
なのでこの辺りの内容が、このnoteの中心のテーマになる予定です。(今のところ)

制約の大切さ 〜大事なのは環境づくり〜

ところで、学習科学研究ではより良い学びを実現していく上で「課題の真正性」の重要さが明らかになってきているのですが、その鍵として「社会文化的制約」というものが挙げられます。

真正性の鍵は、社会的な支援と制限の組み合わせにあり、その両面性をあわせ持った「社会文化的制約」(三宅・波多野, 1991)をどう学びの場にかけていくかが、授業も含めて、今後の学習環境のデザインに必須の視点となるといっても良いだろう。

教育心理学特論」p.98

ここから得られる示唆を自分なりに解釈して、今回のnoteを書くことという行為を「自分自身の学習環境デザイン」と捉えると、その文脈でわたしが「制約」としてイメージするものが2つあります。

1つ目は「読み手の存在」です。発信するという時点で、そこには読み手を意識して書かざるを得ないという制約が生まれます。「書く」だけであれば自分の手元のメモでもなんでもいいわけなのですが、「読み手」が生まれた瞬間に、その文章をできるだけ伝わりやすいものにする必要が出てくるわけです。これについては、知らない方のnoteなのですが、以下に書れている最後の方の一節に共感したので引用します。

ではなぜ発信するのか。それは第三者を意識して書くことで、伝わりやすい文章はようやく完成するからだ。伝わりやすい文章、すなわち精査と構築の過程を経た文章を書くことは思考の整理に必要だが、自分のためだけにはできないほど骨が折れる作業だ。そこで人にわかりやすく伝えるというミッションを自身に課すことで、思考を整理するという本来の目的を遠回しに達成しようとしているのだ。

発信を前提にすることは、読者が読みたいかどうかは関係なく自分にとっては利がある行為なのだ。つまり何が言いたいのかよくわからないこの文章もここまで書き上げた時点で勝ち確だ。

note記事「書くことは考えること」(S.K.さん)

作文教育の研究とかでも、読み手のペルソナが具体的になることで産出される文章の質があがるみたいな研究があって(うろ覚えなので調べとく)、なるほどなーと思った記憶があります。

2つ目は、「更新しなければ」という気持ちが生まれることです。これは心理学の「宣言効果」とか「自己成就予言効果」「締め切り効果」と呼ばれるものにも重なるところがあるかなと思うのですが、オープンなメディアで「書きます!」と宣言すること自体が自分へのプレッシャーになり実現しやすくなるということです。これも、ほっといたら怠けてしまう自分にとっては制約のようなものとして働きます。(現状「目標週○回更新!」みたいな宣言をしていないところに弱さを感じますが笑)

「読み手の存在」と「宣言効果」。論文なんてまさにこれだし、申請のために企画書を出さなきゃいけない、ミーティングまでに資料を作成しなきゃいけない、就職活動で志望理由書を仕上げなきゃいけない、などなど、実はこれらが有効に働いていることって日々たくさんありますよね。逆にいうと、書くこと自体がそんなに好きじゃない自分は、そうでもしない限り、なかなか書くことに向き合えないのです。そういう意味でも、noteはちょうど良いかなと思いました。

そして、「しなければ」という中でスタートしたことが、やっていくうちに面白くなったりもっとやりたいと思えるようになったりすることがしばしば発生するので、今回も期待しているのは、そのフェーズにいくことなわけです。(上で引用した「教育心理学特論」の動機づけに関連する章には、「内発的動機づけや好奇心の重視は、ただちに外からの働きかけを諦めることにつながるのではない」(p.117)という一文があるのですが、そことも関係しそう。この辺のことって学校教育でもすごく重要な視点でもっと探究していきたいテーマなのでメモ)

余談ですが、今年こそ健康のために運動習慣をつけたいな〜と思っていた矢先、同僚が社内Slackに運動報告というチャンネルを立ち上げてくれたことによって、まだ一ヶ月ではありますが定期的なジム通いができるようになってきて、だんだん楽しくなってきている自分がいます。(行くハードルを限りなく下げるために着る服・かばん・持ち物も全部固定化して行くために何も考えなくていいようにするという工夫もしています笑)
継続するために必要なのは意志の力ではなく制約を含めた環境づくりというのはやはり真理だなと。

・・・・話がどんどん逸れていきそうなのでそろそろ終わりにします。
書き始めるとだらだら長くなっていくということを初回にして学ぶことができました!w

Anyway, 駄文をここまで読んでくれた方、ありがとうございます。
今後ぼちぼち更新していこうと思ってますのでこれからぜひ宜しくお願いいたします^^

ほなまたね

(3,322 文字)


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