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Twitterから離れたら正気の沙汰じゃない文字書きに戻れたかもしれない

唐突ですが、少女漫画ではこちらの作品が刺さりすぎて毎回泣くほど好きです。

「スイート・ソロウ」持田あき先生(集英社)より 詳しいご紹介はこちら



Twitterアカウントからログアウトして暫く経ちました。
離れる、と決めてタイムラインを見なくなった1週間後、API制限やthreadsへの移動ムーブが巻き起こったことで、逆に冷静になれた気がします。自ら離れた時がたまたま閲覧制限がされたタイミングに重なってただけだったのですが、その日に見に行ったらTwitterアカウントは主が不在でも健在で、そして閑散とした風が吹いていて、まるで北欧の緑地に建てられた墓標のようでもありました。



Twitterから離れた主な理由は、単純に家庭のマネジメントが忙しくなったからとか、仕事のスケジュールがギチギチでとても推し活どころではなくなりそうだったからで、イーロン氏のせいではないです。
あとは以前書いたこととも関連するのですが、界隈特有の特異性をスルーしながら、仮面をつけた交流を楽しむ、ということはやはり苦手だなと悟ったので。

他ジャンルでツイ廃オタクのリア友によると、Twitterで見せている自分像は、推しに狂っている様子を演じている自分であって、素のままではない、のだそうです。私が見る素の彼女も推しに狂ってるように見えるし、プライベートも事実を書いているように思えるけど、それでもやはり「見せる自分」を厳選しているとのこと。
「その界隈だけで見せる自分」って何なのでしょうね。そういう演出された自分を発信するのが苦手で、インスタとかのキラキラ系SNSは継続できなかったのに。Twitterなら割とありのままでいられると思っていたのですが、そうではなかったのか…。

ユートピアの顔をしたディストピア。2次元であれ3次元であれ、推しを神と崇め称え公式に貢ぐものが正義、という無言の同調圧力(※そんな意図なく楽しんでおられる方が大多数だとはわかっています、あくまで私の受け取り方の問題。)のもとでわけのわからない忖度を試みたり、自分の言いたいことを抑制したりしているうちに、とうとう文章が書けなくなってしまいました。
字が書けないことは、自分にとってはあまりに悲しい出来事でした。1年近く悩んで解釈の言語化を始めたり、いっそ絵を描いてみようとか、それはそれなりに楽しんだりもしたけれど、根本的な解決にはならなかったです。
けれど、Twitterへの未練を断ち切って心を切り離した途端「書きたい」という意欲が戻ってきました。


最近、超久しぶりに、唐突に思いついた話を形にしています。
誰のためでもなく自分が納得するための創作なので、需要はどこいった状態。むしろ反逆者として吊し上げられそうな気もしていますが、Twitterにいなければ多分気にならないでしょう。誰も書かないものを書くという挑戦は、正直楽しい。
なぜ彼らは、こう動くのか。過去と未来はどのようにリンクするのか。言動に説得力を持たせるための場面設定や背景描写を作るために本を読んだり、検索を駆使したりして、仮想世界にリアルな骨格を組み立ていく。
物語を作るために新しい知識を得ることが本当に楽しいと感じます。寸暇を惜しんで創作に沼る、これ以上の心の健康はありません。



「楽しくなきゃ、意味がないじゃん!」

この決め台詞に励まされて、自分の推し活(二次創作)は意味があるものだと思い込み、
今夜も質のいい孤独に沈みます。

誰にも顧みられることのない真水の湧く泉があり、甘く新鮮な恵みが夜の白い闇にあふれ出ている。死者を運べ。

(アリステア・マクラウド『彼方なる歌に耳を澄ませよ』より)