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都市の魔法

 4月の終わりに目の前に2冊の文庫本を置いて、どちらを読もうか迷っていた。

 ゴールデンウィークに有休を足してどうにか作った10日と少しの休暇でパリとミラノに行ったのはもう3年も前なのか、と表紙を眺めながら気がついて、時間の過ぎる速さに愕然とする。毎年どんどん速くなっていくというのは本当なのだなと、20代のときもなんとなく思っていたけれど、30を過ぎてからの加速には驚いた。40代、50代ともっと速くなっていくのだろう。

 子供のころから海外文学を読んでは行ったことのない外国に思いを馳せていた。
 すっかり大人になり、どうにかやりくりして行きたいところに行けるようになった。それで行ったことのある場所が舞台の作品に巡り合うことも少しはあり、なかなか嬉しい。どこかに行った時に「ああ、●●で観た(読んだ)場所だ」と映画や本を思い出すのも愉しい。

 パリなんかは映画でも本でも絵画でも頻繁に出てくるし、行ったことのないうちに地図を観ながら歩いてみる想像をしたこともあれば、Googleマップのストリートビューで歩き回ったこともある。
 上に挙げたジェレミー・マーサー『シェイクスピア・アンド・カンパニー書店の優しき日々』の表題にもなっているこの書店は有名で、聞いたことのある人も多いだろう。わたしも映画で何度か見たことがある。『ミッドナイト・イン・パリ』にも出てきて、『ジュリー・アンド・ジュリア』でジュリア・チャイルドが本を買っていた、『ビフォア・サンセット』のサイン会。『サード・パーソン』のラストもここだった気がするけれど、これは映画を見直さないと確証が持てない。

 ところがシェイクスピア・アンド・カンパニー書店のことは知っていたのに、実際にパリに行って数日滞在する間に思い出すことすらなかった。
 セーヌ川沿いは2日間歩き回って、すぐ近くの美術館に行ったりしていたにも関わらず、いつか行ってみたいと思い描いていたパリの街を歩き回るだけで楽しくて仕方なかった。この書店ばかりでなく有名なカフェや商店、本や映画や絵の舞台など、行ってみようと日ごろから心に留めていたこと、食べてみたいと思っていたもの、悉く失念してしまっていた。
 日本に帰ってから色々と調べていたことを思い出したのだが、まるで魔法にかかっていたかのように、そこにいる間はそこにいること自体に夢中になっていた。かろうじて幾つかの美術館・博物館に行ったのだが、それでも日本で調べておいた半分にも満たない。パリというのは本当に不思議な街だと思う。

◆◆◆

 もう一冊のアレッサンドロ・マンゾーニ『いいなづけ』はミラノを中心にロンバルディアとヴェネトが舞台になっていて、こちらはイタリアでロックダウンが始まった頃にミラノの学校の先生がこの本を紹介したことで日本でも話題になり、さっそく再版がかかったのだった。

 ミラノを訪れたときは頭もはっきりしていて、事前に調べておいた美術館・博物館を片っ端から見て歩いた。古い教会やお城もあるけれど、ビジネス街も広いし建物も新しいものが多かった。働いている人、住んでる人、みなが足早に歩いていくのが実に都会らしい。のんびりしているのは観光客と仕事のない移民だけだ。
 中央駅近くからガリバルディやレプブリカ駅を目指して歩き、そこからドゥオーモのある市中心へ上っていく。ぶらぶら歩く間にその日見に行く場所を頭の中で決めて、中心からその方角へ下るので、連日ドゥオーモを見ることになった。
 ドゥオーモは何度見ても美しかったし、ミラノはミラノで魅力的な街なのだが、古い街の魔法はここにはもう残っていないようだった。

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