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それは芸術か、技術か

 ローマを歩いていたとき、フォロ・ロマーノのあたりで色粉を使って絵を描いている黒人青年がいた。
 地面に敷いたシートの上で、台紙に青い粉を優雅な手つきでふりかけ、次は銀色の粉を手に取って、こんどは大きく手を振る、そんな動作を繰り返すと、宇宙に浮かぶ惑星のような絵が出来上がる。出来上がった絵はシートの端に並べられて、観光客に買われるのを待っている。
 カラフルで目を引くし、絵が出来上がっていくのを見ているのは面白い(よくYouTubeでこういう動画を見る人は多いだろう)。ただ、なぜ目の前のローマに一切関係のない惑星の絵なのだろうと思いながら立ち去った。
 こういうアーティストもいるんだなと思ったのだが、街を歩いていると観光名所のあたりには同じことをしている黒人青年がどこにでもいた。皆まったく同じ、青暗い宇宙に浮かぶ惑星の絵を並べている。

 これは芸術作品といえるのだろうか?と、ふと思った。

 私の考えでは、これは芸術作品ではなく、こうしたらこういうものができるという技術のパフォーマンスだと思っている(ただし完成品の絵は芸術作品でないとしても、そのパフォーマンス自体は芸事に違いないが)。あくまで「確立されたやりかた」のとおりに手を動かして、全く同じものを描くことができるという技術。彼はそれを覚えて披露しているわけで、結果として生産された絵画に芸術性は感じない。
 というようなことを140字に圧縮したものをTwitterにぽろりと書いて、返信をもらったりしてやり取りするうちに自分の考えが膨らみつつ固まってきたので、久しぶりにnoteを書いている。

 鉛筆等で写真のような、本物とそっくりに絵を描くのは技術じゃないか?
 それが鉛筆でなく油絵なら?
 肖像画は?
 ボブ・ロス的なコンテンツは?
 あるものを描くか、無いものを生み出すか?

 少し考えて、技術と芸術は別のベクトルなのだと気が付いた。

 私は芸術の勉強をしたことは全くないのだけど、好きで時々絵を描く。といっても鉛筆か黒いペンで紙に何か書いているだけの簡単なことで、それもここ数年は殆ど描いてないのだけれど、その前の数年間は何故かひたすら絵を描いていた。
 Instagramは絵を載せたり見たりするために始めて、しばらく後でFacebookと同期するまでは知らない人しか繋がっていないくらい、何か描いては、出来上がった絵の写真を載せるまでが一連の流れだった。(これは途中で飽きた場合も「完成させてインスタに載せよう」という完成させる動機付けにもなった。それでもよく未完成で力尽きたけれど)

 それで”写真を見ながら写真そっくりに描く”をしたこともあって、これは線画ベースに影を足していくばかりの自分にとっては、線で区切らず濃淡で陰影や輪郭を作るという練習にもなってよかったのだけど、何より写真そっくりに出来上がった絵の反応の良いこと。上手だもの。まるで写真みたいで。
 確かに素人にしてはうまい、全人類に紙とペンを渡して同じように描かせたものをコンピュータで解析して元画像と比較した場合の誤差は確実に少ないほうになる。そういうつまらなさがある。「すごい」と言われたくて描いているのが自分でもわかる(と書くのはとても恥ずかしい)。技術ベクトルは高いけど、芸術ベクトルは全くない。

 というわけで、技術と芸術は別のベクトルであるという前提のもとに先ほどの命題を考えてみると、そもそも「これは芸術か?技術か?」という考えがちょっと雑だったと気が付く。
 Wikipediaの定義では、

表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。


ものごとを取り扱ったり処理したりするときの方法や手段。および、それを行うわざ


と書かれている。
 正確に言い表すなら 芸術 > 技術 のように不等号でベクトルの大小を表すか、グラフにでもするべきなのだろう。はっきり二つに分けるのではなく、「この二要素をどのくらい持っているか」で考えると腑に落ちた。

 鉛筆等で写真のような、本物とそっくりに描かれた絵は?
 これは上で書いた通り、技術ベクトルは大きい。けれど、見た人の感覚から「本物みたい、すごい」を引いたときに残る「表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動」はいかほどだろうか。構図の取り方、モチーフの選び方から受ける作用もあるだろうが、それが流行りや模倣だったり、写真の模写であれば、それは描いた人間のものではない。

 油絵を描くのは「油絵を描く技術」だ。技術の高くないと伝えられないものもあるだろう。特に写真の無かった時代には、まるで本物のように伝えることのできる絵画の需要はどれほど高かっただろう。
 色や筆致により表現の幅が広く、こちらはより芸術のベクトルが強くなると感じる。ただしお仕事で描きました、という風情の肖像画にはやっぱり芸術性はあまり感じられないような気がする。レシピや手順が厳格に決められているファーストフードと、シェフが今夜のコースを考えるレストランの違いのようなものだと私は思う。

 ボブ・ロスは有名な絵画講師で、油絵の入門セットと一緒に絵の描き方をおしえるビデオを販売していた。日本語の吹き替えのついたものもある。
 彼のビデオはいつも”そこにはない風景”を描いている。具体的なモデルがあるのではなく、「きょうは冬の川べりの風景を描きましょう」「この絵の具にこの絵の具を少し混ぜて、この筆にとってこうやって動かすと、ほら、針葉樹が」という具合に、彼の説明に従って同じように手を進めればいい感じの風景画が出来上がる。
 ただしこれ自体は「技術を教える教材」なのだ。「それらしい風景画の描ける手順の説明」を元に出来上がった作品も、それらしい風景画であって、そこに高い芸術性を持たせる意図で描かれてはいない。ところでボブさんのレッスンはとても楽しいので、見たことのない方は機会があれば是非見てほしい。

 素人がくだくだと考えたことのメモで恐縮至極、ついでにここで言っている”芸術”は絵画に限定したものであることを記して終わりにする。

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