他人からの苦言は、貴重な成長の機会
1.叱られているうちが花
「叱られているうちが花」という言葉がある。
これは本当だな、と最近よく思う。
大人になると、あえて苦言を呈してくれる人が減る。よほど自分のことを思って、またはよほど近しい間柄でないとなかなか大人同士の付き合いの中で踏み込んでそこまで言ってくれる人はいないだろう。
ただ、自分も大人になり、ある程度自分と言うものが出来上がってしまうと、「他人の苦言を正面から素直に聞き入れる」と言うのはとても難しかったりする。
痛いところをつかれるとなおさらだ。自分の非を素直に認めるのは、自分を否定するような気がしてなかなかキツイ。
だから、図星であればあるほど逆ギレしたり、人のせいにしてみたり、なんとか自分の非を認めないように持っていってしまう。
2.他人からのアドバイスを聞けない人
プライドが高くて自分が絶対に正しいと思っている人や、人を見下す癖のある人は、実は自分に自信がない人だ。
そういう人ほど、自分の非を認めることは、自分を全否定することだと思って断固拒否する傾向がある。非を認めて相手に謝るなんてもってのほかだ。
やってしまいがちなのは、逆ギレと責任転嫁。この2つは言い逃れに使いやすくて、それっぽく聞こえて、ラクな方法だから。
ただし、これはとてももったいないことだと思う。自分を省みるのが嫌で、ついつい逆ギレや責任転嫁で終わらせる癖がついてしまうと、周りの人から一線を引かれてしまう。
周りの人と言うのは、結構ちゃんと、日ごろその人がどういう行動をしているか、見ているものだ。その人が信頼できる人かどうか、ちゃんと見極めている。
大体、あの人はああいう人だよね。というのが仲間の中で一致していると言う事はそういうことだ。
痛い人、マウンティング女子、プライドが高すぎて扱いにくい人などは、「何を言っても無駄だろう」と思われてしまっている。
すると誰からも、注意を受けることがないまま、とにかく関わりたくないので一線を退いたお付き合いをされてしまう。そして、勘違いしたまま「イタイ人」の人生を突き進むことになる。
3.非を認めることは、自分を否定することではない
とはいえ、わたしだって、耳が痛いことは聞き入れたくない。苦言を呈された瞬間は「嫌だなぁ」と思うし、自分の嫌なところなんて見たくない。非を認めるのって、なんか、負けた気がするし。
しかし、自分の非を認めることは、自分を否定することとはまったく別だ。
自分を省みることができなければ、成長はない。だから、苦言に向き合うことは、自分を成長させ、改善するための手段だ。
だから、あえて苦言を呈してくれる人の言葉は、それでもいったん、自分の中で咀嚼して考えるようにしている。
少しでも自分に思い当たるフシがあったら、自分にそういうところがあるか、それは改善したほうが良いか、考える。
確かにそういう部分もあったなと思えば改善しようとしてみるし、ただの言いがかりだなと思えばそれは自分の中でスルーする。そこの見極め大事。
4.「苦言」と「言いがかり」を見極めよう
「苦言」と言うのはけっこう見極めが難しい。本当に自分のことを思って言ってくれている場合と、ただの言いがかり、気に入らないから八つ当たり、それこそ迷惑な責任転嫁の場合もある。
ほとんどの場合が言いがかりだったりする。なので、それを誰が言うか、その人が自分のことを普段どのように扱ってくれているか、その人は信用に値する人かを考えて、その人の意見を聞くかどうか吟味したほうがいいと思う。
自分を非難されて何でもかんでも自分が悪いと思うと、これまた責任転嫁ヤローに付け込まれてイライラのはけ口にされ、八つ当たりの標的になってしまうので要注意。
5.苦言に向き合うことは、成長のチャンス
最近、ゴタゴタに巻き込まれて嫌な思いをした。自分の何がそれを招いたかよくよく考えている。それについて、アドバイスをくれる親しい友達もいて、その中には、自分にとっては耳の痛いこともある。
けれど、わたしにアドバイスをくれた人たちの言葉は貴重だ。それらを自分の中で咀嚼して、これなら取り入れられそうで、より自分の成長につながると思えることを取り入れていこうと思う。
自分を卑下するのではなく、しっかりフラットな目線で振り返りをし、改善できそうな部分は改善していこうと思っている。
私だって誰かの「イタい人」なのかもしれない。けれど、できるだけそうはなりたくないし、起こった出来事や経験から学んで成長したいと思っている。
だからなるべく定期的に自分を省みて、振り返りをしている。特に嫌なことが起こったときには注意して振り返りをする。
そうすることで少しでも進歩した自分になれると思うと、ワクワクするのだ。
今日もお読みくださりありがとうございました!
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