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『光る君へ』いろいろ解説⑥ 石山詣で

みなさん、こんにちは。
次回、『令和源氏物語 宇治の恋華』第百二十七話 は、明日4月17日(水)に掲載させていただきます。

本日は「石山詣で」について、解説したいと思います。


 女人結界と観音信仰

平安時代では女人は不浄として、寺社には「女人結界」なるものがありました。これは女性には月の障りがあり、出産なども出血を伴うものなので、不浄であるという考え方です。そうして女性が子を産まなければ男も世に誕生しないというのに、まさに男尊女卑の最たる考え方ですね。
大相撲の土俵に女人が上がってはいけないのもこうした理由から。
ともあれ聖地や祭祀には女性は立ち入ることを禁じられ、寺社に詣でるなどは到底不可能な事でした。
そんな平安時代に流行した「石山詣で」。
これは観音信仰による賜物でした。観音さま(観世音菩薩)は衆生(民を救うために)する慈悲深い仏様です。
観音信仰自体は飛鳥時代に伝わりましたが、平安時代では法華経の教えと共に貴族の女性たちに支持されました。その教えの根本の考え方は、「人は誰でも平等に成仏できる」と教えられたお釈迦様の御言葉にあります。
男尊女卑の時代にあっては、女性を受け入れる寺社はありませんでした。
観音様をご本尊とする清水寺や長谷寺(初瀬の観音様)、そして如意輪観音さまをご本尊とする石山寺は女人を受け入れる霊場として開かれました。
そこで願掛けを目的とした「石山詣で」が貴族の女性たちの間で流行したのです。

 石山詣で

『光る君へ』第15話にまひろとさわが石山詣でに出かけますが、石山寺には実に多くの女流文学者が参詣しております。
紫式部はもちろんのこと、和泉式部や清少納言、藤原道綱の母やその姉妹の菅原孝標の娘(『更級日記』著者)など。
石山寺への行程は、藤原道綱の母が書いた『蜻蛉日記』の記述がもっとも有名でしょう。
まひろとさわが徒歩で石山寺に向ったように、明け方に出発し、逢坂の関を超えて、打出の浜に着くと船に乗り、その日の夕方には石山寺に着いたという小旅行のような感覚でしょうか。
石山寺では数日滞在して参籠するのが通常のスタイルです。
藤原道綱の母は、石山詣でを思い立ち、家の者たちにも告げずに旅立ち、十日ばかり滞在したそうです。
平安人には海とも思われた琵琶湖の風を感じながら、自然が身近にある環境は常に都にある貴族の女性たちには感性を刺激される環境だったでしょう。多くの女流作家の作品に石山詣でのことが書かれ、紫式部も石山寺で源氏物語の着想を得たといわれております。
背景を知りその地を訪れると、より理解が深められ、味わいのある旅となりますね。
ほんの少しでもお役にたてれば幸いです。



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