東日本大震災から八年(わたしの震災当日)

あれからもう八年――あっという間だった、と思うけれど、たぶんあのとき被災した現場にいて、被災した方々にとっては、つらい日々の連続だったのだと思う。

今から八年前の今日――2011年3月11日、東日本大震災が発生した。

当時のわたしは社会人一年目。わたしの一つ上の世代までは、割と景気がいい中で、スムーズに就活を終えることができていた。
が、わたし学年からリーマンショックの影響をもろに受け、就職氷河期に入ってしまうという微妙な不幸に襲われた。
そんな中、わたしがようやく内定をもらったのも普通の商社などではなく、レジャー産業の会社だった――もっと言えば、頭文字に『パ』がつく、大人の遊び場を経営している会社である。

配属先となったのは群馬県前橋市にある店舗で、わたしは大卒の新入社員として、働き始めてそろそろ一年を迎えようとしていた。

お店はちょうど忙しい時期を抜けていた。というのもこの一ヶ月前、店舗はオープン三周年だか二周年だかで、店舗全部のリニューアルを図っていたのだ。
わざわざ店休を取っての全面リニューアル――パチンコ店は一日休むだけで100万円の損害が出る、と当時の店長は言っていた。その店長がリニューアルオープン前日に休みを取ると決めての大改装である。店舗の命運を賭けてと言っても過言ではなかった。

当然、従業員はその準備で、連日寝る間も惜しんで必死の作業を続けていた。わたしも毎日8時間のサービス残業、寝る時間は5時間あるかないかの生活で、ほぼ20日ほど休みなく出勤していた。
寝不足と疲れでふらふらの中、リニューアル当日は朝の5時に出勤し、開店前からずっとホールに詰め、昼食休憩30分以外ずっと立ちっぱなし動きっぱなし。退勤したのは日付が変わった深夜1時だった。
翌日は休みをもらったが、正直その日はまったく休めず、連日の疲れは休みの次の日に出たので、それから三日間くらいは地獄の勤務だったように記憶している。

とにかく、そんなとんでもない時期をようやく抜けて、新しい店舗に従業員も客も慣れてきて、ちょっと小休止という雰囲気が漂う時期だった。

前橋の冬は寒い。大雪が降ることもあるが、この年はさほど雪には悩まされなかった。
その代わり、山から吹き下ろす風の強さと冷たさに、この土地出身ではないわたしは毎日震えていた記憶がある。年明け前には奮発して、4万円もするダウンコートを買ったほどだ。ちなみにこのコートは今も使っている。今年はさほど寒くなくて、あまりお披露目する機会はなかったけれど。

3月11日も寒かった。風がすごく強くて、ダウンコートがなければ外には立てなかった。

その頃のわたしは遅番勤務が続いていて、前の日の帰りが遅くなってしまったので、風呂にも入らず眠ってしまっていた。遅番の出勤時間は15時。その日、わたしは14時頃に目を覚ました。

それとほぼ同じ時間、ちょうど仕事が休みだった彼氏が遊びにきた。
彼とわたしは同じ会社に勤めていたが、このときの彼は市内の違う店舗に務めていた。わたしの家に近いところにあるスロット店に遊びに行く予定で、その前に顔を見にきたということだった。
わたしは彼を家に上げて、悪いけど風呂入るわ、と言ってユニットバスへ入った。14時頃だった。

座って腰がつかるくらいまでお湯をためて、カーテンを引いて座り込む。午後なのに寒いな、前橋にはいつ春がくるんだ、と思いながら、湯船の中で頭を洗っていた。ユニットバスの不便なところである。寒いのでシャワーは出しっぱなし。ザーザーと音が流れている中、頭を洗っていたので、異変に気づくのが少し遅れた。

最初は水面がバチャバチャと揺れているなと思った。そりゃそうだ。シャワーを流しっぱなしなのだ。揺れるに決まっている。けれどどうにも様子がおかしい。シャワー以外の音が聞こえる気がする。水がずいぶん揺れている気がする。思わずシャワーを止めた。

その瞬間、ユニットバスの扉が外からバンッ! と勢いよくあいた。同時にすぐそこの玄関の扉も全開になる音が聞こえた。わたしは頭からシャンプーの残りを垂らしながら立ち上がった。

直後、大きな揺れがきた。揺れよりも先にドンッという轟音が聞こえた。

わたしは悲鳴を上げて、シャンプーの残った濡れた身体のまま浴槽を飛びだした。バスタオルをひっつかんで身体に巻いて、退路確保のために玄関扉を押さえていた彼氏にしがみついた。揺れはまだ続いていた。

「なにこれ地震!? でかすぎじゃない!?」
「めっちゃ揺れてるし……」

彼氏も真っ青である。わたしは全裸だけに誰かに見られたらという羞恥も捨てきれなかったが、最悪このまま玄関から飛びだして逃げなければならないことも考えて、靴のありかを探った。幸い、履くより先に揺れは収まった。

「ちょっと今のはやばい揺れでしょ……連絡……メールしなきゃ。ケータイ使えなくなる前に」

わたしはバスタオルをひとまず身体にしっかり巻いて、ガラケーをひっつかんだ。実家の母に当てて即座にメールした。『地震大丈夫!? わたしは無事!』この二言だけですぐ送信した。電話もメールも地震直後はすぐに通じなくなる。とにかく自分の無事だけでも知らせておかなければという思いだった。送信できたことにひとまずほっとした。

恐怖で心臓がバクバク言っていた。メールを打つのも一苦労だった。これだけ大きな地震なのだ。しかも雪解けの季節。どこかで雪崩が発生したかも。
停電したらどうしよう。まだ暖房が必要な季節なのに。
自分はいいとして、一人暮らししている祖母は大丈夫だろうか? 父は今頃、職場にいるだろうか。母は自宅? 弟は? 叔母夫婦は? 従兄弟たちは? 新潟に住む親戚は? 新潟の家族は中越地震のときも大変だったのに。
いろんな思いが頭の中を駆け巡る。とにかくみんな無事でいて欲しい。その一心だった。

揺れは微妙に続いている気もしたが、とにかくこんな格好ではどうしようもない。急いでユニットバスに戻って髪を洗い流し、ドライヤーで髪を乾かす。そのあいだ彼氏はわたしのPCを立ち上げて、ネットを繋いで2chを見ていた。

「うわぁ、東北のほうがすごく揺れたらしいよ。棚のもの落ちてきたって」
「悠長に2chなんか見てる場合か! せめてヤフーニュース! んでもって実家に無事だって連絡しなさい! 心配してるよ!?」

と彼氏を怒ったけれど、よくよく考えると情報収集中のニュースよりも2chのほうがリアルタイムの情報がたくさんあったような気がする。当時は2chも賑わっていたものだ。

そんなふうに情報収集する彼氏の横で、律儀に職場の制服に着替えたわたしは、とにかく出勤時間が迫っていることに焦っていた。
今ではずいぶん地震などの災害の際は自宅待機にするべきだ、などという論争が起こるが、すっかり社畜化していたわたしは『休む』という頭は一つもなかった。恐るべき社畜体質である。

生乾きの髪をとかして適当に化粧を終えて、ダウンコートを羽織ったわたしは彼氏とともに外に出た。ぼろアパートの二階に住んでいたので、今の揺れで外階段がゆがんでいたらどうしようと気が気ではない。幸いなことに階段は錆びている以外、異変はなかった。扉もきちんと閉まったし、鍵もかかる。停電もない。

だが階段を降り終えた瞬間また大きな揺れがきた。外にいても揺れを感じるなど、とんでもない震度が襲っているに違いない。
当時一人暮らししていた家にはテレビがなかったので、わたしはこの時点でどこが震源地なのか、どれくらいの震度なのかもわからなかった。ガラケーで調べることもできただろうが、停電になったときに充電が足りていないと心配という思いがあり、下手にケータイを起動させることができなかったのだ。

あまりに大きな揺れなので、ご近所さんがみんな外に出て、揺れ動く電柱と電線を指さして悲鳴を上げていた。わたしも彼氏にしがみついて怖い怖いと口走っていた。それでも仕事には行かなきゃいけない。
彼氏ももう遊んでいる場合じゃない、ひとまず帰って家の中が無事かどうか確かめて、と言って、おのおの車に飛び乗っていったん別れた。

幸か不幸かわたしのアパートから職場である店舗は車で五分の距離で、あいだはずっと田んぼなので信号もなかった。すれ違う車も一台、二台とかでスムーズに職場に到着。ひとまず店舗に入ると、すぐ脇のカウンターは大混雑していた。

地震という非常事態に際し、とにかく客を帰すことにしたらしい。カウンターには遊戯を終えた客が景品の交換に並んでいたのだ。カウンターはフル稼働で、一つは熟練アルバイト、もう一つは先輩社員が詰めて、超特急で景品を交換していた。わたしはそれを横目で見つつ、休憩室のロッカーに荷物を置き、事務所へ入った。事務所も混乱中だった。店長やマネージャーはずっと電話しながらPCをいじったりメモを取ったりしていた。

「ひとまずお客様を帰すから駐車場の誘導やって」

と早番の班長に言われ、ダウンコートのまま外に出たが、誘導などせずとも、ほとんどの客が我先にと車で走り去っていった。なのでわたしの仕事は、どちらかというと入ってくる客に「すみません、地震の影響でもう閉店なんです」と説明し、丁重に頭を下げ、お見送りすることだった。

そのうち、アルバイトたちが駐車場に出された。店舗の中は危ないという店長の判断だった。わたしはそちらに合流し、そのときの様子を聞いた。

「もう店の中ぐちゃぐちゃ。しばらく営業できないんじゃない?」
「ガラスがね、ホントにやばかったよ」
「うちら、いつ帰れるかね? 保育園のお迎え行かないとだわ」

遅番のアルバイトも車でやってきたが、おそらくすぐ帰ることになるから、とそのまま帰した。わたしは社員だからたぶん店舗の中に入るべきだったのだろうが、まだ遅番の社員が誰もきていないのをいいことに、外にいた。寒かったが、アルバイトのお姉さん方と一緒にいたほうが安心できた。
皆わたしより年上がほとんどで、勤務年数もわたしより長かった。社員の義務に蓋を閉め、年下の特権で甘えていた。幸い、誰もそれを咎めなかった。

やがて遅番の班長がやってきて、わたしはようやく一緒に中に入った。外にいたアルバイトさんたちは、その班長が「たぶんこれ以上いてもなんもできないっす。帰って大丈夫です。店長に説明しておきます」と言って帰した。

遊戯台が並ぶホールは危ないから入らないで、と言われ、事務所へ。ちょうど換金所のおばさまたちが確認にきていて、わたしも班長とともに金庫室に入り金額の確認をした。

おばさまたちが帰り、アルバイトが帰り、社員がそろったところで、さて、どうするか、という話になった。
こうして流れを書いている中でも余震は何度かあった。怖かった。それでも職場という緊張感が恐怖を押しやっていたのか、震えることはなく、社員の一員としてそこにいた。

「とにかく今日はどうしようもできないわなぁ。くっそ~、新台入れたばっかりなのに」

というのは店長の言。確かにこの数日前、パチンココーナーに北斗の拳の最新型を導入したばかりだった。だがその北斗が並ぶ島が、一番被害がひどかった。
というのも、その店舗は大きめの体育館くらいの広さと高さがあり、天井にはホール内の音を軽減させるための、ガラスの板が何枚も並んでいた。そのガラス板の一枚がちょうど北斗の島の真上にあり、最初の大揺れの際にひびが入って、ガラスが降ってきたのだ。
幸いほとんどのひとは逃げ出したため、怪我人はいなかった。だが島中にガラスが散らばったままで、まだ揺れが続く中で入るのは危険だった。

早番の社員は大揺れの中お客様をホールの外に誘導しながら「ガラスがどんどん降ってくるんだよ。やばい、わたしたち死ぬね、ってみんな言い合ってた」と言うくらい悲惨な状態だったらしい。照明もぐらぐら揺れていて、いつ落ちてくるかと気が気ではなかったそうだ。
怪我人がいなかったのは本当に奇跡だ。もしかしたらいたかもしれないが、それに対しなんやかんや言われることがなかったのも、ある意味幸いだった。

リニューアルオープンしたばかり、数日前には目玉の新台を八台も入れたばかり。そんな中での地震と言うことで、店長が気にしていたのはやはり店の売り上げや今後の方針だった。
店長らしいと言えるが、入社一年目の平社員のわたしは「早く帰りたい」としか思っていなかった。早く帰りたいが、家に一人でいるのも不安。だが職場で仕事なんか絶対にできない。
と、思っているのだが、いざ「とにかく風除室のところとか、お客様の出入り口を掃除しておいて」と命じられると「はい」と答える社畜体質である。だがこういう混乱時は、誰かが指示を出してくれて、それに従うことほど安心するものはない。
揺れがきたら倒れそうな看板や消毒液の棚などを、わざと横に倒したり、倉庫に運び入れたり、揺れの合間を見て、ガラスが散らばるホール以外の場所を点検した。

そのうち、店長が「テレビ見よう」と言って、全員を店内のカフェに集めた。カフェは大型テレビが設置されていて、停電もなかったので見られたのだ。
NHKをつけた途端に流れてきたのは「津波がきます」という警報だった。東日本と関東の太平洋側、すべてが赤いラインで埋め尽くされている。同時に被災した街の様子が映し出されていた。あまりのことに声も出なかった。津波……そんな単語、サザンの歌でしか聞いたことがない。津波がどういうものかすらよく知らないのに。

次に移ったのは都心の映像だ。混み合う駅やなんとなく忙しないひとの動き。先輩社員がそれを見ながら「ああ、うちのお姉ちゃん、今日は上地雄輔のライブに行くって言ってたんだよ。帰ってこられるのかなぁ……?」と心配していた。あとあとライブは中止になり、お姉さんは帰宅困難者となったことを知ることになる。

店長以下、お偉い男性陣立ちは難しい顔でテレビを見ながら「とりあえず、電気が無事なうちに家に帰ったほうがいい」ということで、六時頃に帰ることになった。
わたしは結局ダウンコートを一日ずっと身につけていた。なんとなく脱ぐ暇もなかったし、店舗は外から見て営業していないことがすぐわかるように、必要最低限の電気を落としていたため、とても寒かったのだ。不安に揺れる心を、せめてコートの暖かさで護りたかったのかもしれない。

その日の夕食をどうしたのか、記憶にない。おそらくコンビニに寄って買ったのだと思う。
テレビはないけどネット環境が整っていたのは不幸中の幸いだった。おかげでYahoo!から、NHKが配信している映像を見ることができた。
悲惨な映像だった。気仙沼が燃えていた。あんなに大きな街が、真っ黒な町並みが、オレンジの炎で燃えていた。
速報が入った。波打ち際に死体が上がっている。ざっと見て百体ほどの死体が上がっているようです、と。報道のあいだも余震がきた。店舗にいたときは揺れても「また揺れてるね」と隣にいるひととうなずき合うだけだった。でも誰もいない。家には一人。6畳の1DKで、たった一人で震えているしかできなかった。

合間に何度か実家の母に電話をかけた。ようやく繋がったのは夜も遅い時間……たぶん10時とかその辺だった。家族は全員無事だった。それぞれバラバラの場所にいたようだけど、今はちゃんと家にい一緒にいると聞いてほっとした。祖母も、新潟の家族も無事だと聞いた。心底からほっとした。
ほっとして、怖くて、泣きながら母と電話した。すごく怖い、今も揺れてる、もうやだ、眠れる気がしない。
それでも家に帰るとは言わなかった。仕事があるから。明日はシフト上でも休みだったから休むけど、その後はどうなるかわからない。でも仕事だからここは離れられない。

度重なる揺れに怖がりながらも、ひとまず寝ることはできた。風呂には入れなかった。またお風呂に入ってきたときに揺れに襲われるなんていやだ。昼間は彼氏がいた。でも今はいない。入浴中に大揺れがきて、すっころんで頭を打って、裸で溺れ死んでいるところを発見されるのはいやだった。
その彼氏とも、母と喋ったあとに電話した。遊びに行こうと思っていた店舗は店じまいしていたし、帰ろうにも停電していて信号が使えないから、家にたどり着くまで時間がかかったとのことだった。

わたしの家が停電していないのは、本当に不幸中の幸いだった。市内はほとんどのところが停電していた。
わたしがいるところが停電しなかったのは、ひとえに近くに警察署と消防署があったからだ。ちょっと行ったところにはNHKの群馬支部もあったから、おそらく一番に電力が支給されていたんだろう。
一人暮らしで災害への備えはなにもなく、懐中電灯すらなかったから、もし電気がなかったら本当に眠れなかったと思う。

――これが、わたしの3.11当日の記憶。

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