見出し画像

彼という母性の沼

「あなたの養子にしてほしい」

わたしは彼にこう言った。わたしの狂気的な面を知っている彼は、笑いながら「それはダメだなぁ」と言っていたけど、わたしは半ば本気だった。

✳︎✳︎

今まで何回かの別れは経験してきた。別れると決まったら、すっぱり会わずに次の日からその痛みと向き合って、いつの間にか忘れることができた。失恋の痛みは、辛くても忘れられることは知っている。それは、この35年の人生でしっかりと経験してきた。

でも、彼とだけは別れることができなかった。この4年間、何度も振られてまた元に戻ってという関係をずっと繰り返してきた。わたしは彼を失ってしまっては耐えられないと思って生きてきた。初めて振られた日は、泣きすぎて過呼吸になった。
身体がついてこない。そのぐらい彼に依存してしまっていた。依存というとまたちょっと違うと思う。ピッタリな言葉を当時は探しきれなかった。
ある日、彼と一緒に「八日目の蝉」を見ていた時、ふと気づいた。わたしは自分と彼の関係を、永作博美とその娘に重ねていたのだ。わたしが娘で彼が母親。そう、わたしは彼の中に母親を見ていた。

✳︎✳︎

わたしは物心ついた時から、自分はピエロだと思って生きていた。家族の中で、盛り上げたり笑わせたりして、均衡を保つ。決して弱いところは見せてはいけないと思っていた。きっかけは母の何気ない一言だった。ある日「あなたは優しいからお姉ちゃんよりもあなたが好きだな」と突然言われた。母は、わたしに救いを求めていた。わたしはショックだった。同じ子供なのにどっちが好きとかあるんだとはじめて知った。わたしはそこから母を救う役割を担った。だから、面白いことをして笑わせたり、わがままを言ってみせたり、笑顔を振りまいてご機嫌を演じたりした。家族の中でわたし1人ピエロだった。

✳︎✳︎

今まで何人かの男の人と付き合ってはきたのだ。ただ、そのときもわたしに染み付いたピエロの役割はなくならなかった。なぜなら、わたしは救う役だったから。彼らは傷つき、その傷を癒してきた。だからわたしはほとんど歴代の彼の前では泣いたことがない。別れもそうだった。

ただ、彼は違った。彼の前ではわたしはピエロでいなくてよかった。ポンコツで泣き虫で狂気的でも、それでよかった。彼はどんなわたしでも可愛がってくれ、ポンコツで何もできない時は笑ってくれた。泣きすぎて過呼吸になった時は抱きしめてくれ、わたしは子供のように無力でもよかった。これほど安心感を抱ける存在がこの世にあるということが、わたしにとっては救いだった。だから、わたしはズブズブに彼の愛情を受けられる存在でいたかった。パートナーがダメなら、養子でいたい。彼という母親に愛されていたかったのだ。

✳︎✳︎

子供はいつか母親から自立する生き物だと思う。わたしは自分の本当の母親からは幼稚園の時に自立しピエロの人生を歩んできた。
彼はというと、自分では「わたしに甘えすぎた」と言っている。そんなことない。甘えまくっていたのはわたしだ。

どちらにせよ、私たちは未だに、自分たちの行く末を決められないままでいる。いや、彼は決めたのだろう。よくわからない。ただ、わたしが養子にしてくれと泣いた日に、「おばあちゃんになっても一緒にこうやって過ごしてあげるよ」とわたしに言った。そんな日がくるのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?