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エルガー:《エニグマ変奏曲》Op.36より 第9変奏〈ニムロッド〉


※ 過去の公演プログラムに掲載された楽曲解説です


エルガー:《エニグマ変奏曲》Op.36より 第9変奏〈ニムロッド〉

 この謎めいた言葉「エニグマ」はギリシア語で、まさしく「謎」を意味し、第二次大戦中にドイツ軍が使用していた暗号機、及び暗号文の呼称でも知られている。エドワード・エルガー(1857~1934)作曲による《エニグマ変奏曲》は通称で、正式名称は《独創主題による管弦楽の為の変奏曲》である。
 
 殆ど独学で音楽を学び、40を過ぎても作曲家として名も知られていなかったエルガー。ある秋の夜、即興でとりとめもなく奏でていたメロディーが妻キャロライン・アリスに気に入られたので、それではと、同じテーマを多彩に変化させ、妻を筆頭に幾人かの友人らのイメージで描き分けてみせ、誰を表しているかを妻に当てさせたことが、作曲のきっかけであった。

 譜面に通例の「テーマ」とは書かず、あえて「謎」と記載した主題に始まり、第1変奏を、献身的に自分を支え続けてくれている妻のアリスとし、本人の特徴を曲に表現しやすかった友人らを変奏曲の形で描いている。「謎」のヒントとなるイニシャルや愛称を各曲の冒頭に記し、最後の曲はE.D.U。妻から「エドゥ」と呼ばれていたエルガー本人が現れる。 

 特定の人物をモデルとした変奏曲としては、エルガーが「我が理想!」と敬愛していたシューマンが《謝肉祭》の中で、かつての恋人や、ショパン、後に妻となるクララなどをピアノで描いており、変奏曲ではないが人物をパロディー化したのがサン=サーンスの《動物の謝肉祭》。こちらは楽しい作品でありながらも知人をコケにした冗談作品なので、作曲者は「〈白鳥〉以外、自分の存命中には決して公開しないよう」厳命していた。ひきかえエルガーの変奏曲は「親しい友らの、心を込めた肖像画」と、本人が語っている愛にあふれたもの。完全な人物描写というより、雰囲気だけとか、当人と作曲者だけが知りうる特定の思い出などが描かれ、モデルとされた人物らに献呈された。

「2つの謎に包まれた曲。ひとつは、主題とは異なるもので、全体を貫く大きな謎。これは演奏されることはない陰の声」という言葉をエルガーは残しており、第2の謎とされる各変奏に当てはまる人物は解明されているが、エルガーの言うところの「大きな謎」については、各説の推理があるものの未だに謎のままである。

《エニグマ変奏曲》という通称は、この曲の最終変奏を大幅に改訂することを勧め、初演の大成功へと導くことに貢献した親友のイエーガーの提案によるもので、エルガー本人も、「エニグマ(=謎)と変奏曲」のニュアンスとして通称を認めていた。
 ドイツ出身のイエーガーは楽譜出版社の編集者で、エルガーにとっては厳しくも心底頼りになる的確な批評家で、アドバイザーであった。エルガーが深刻なスランプに陥ると、「ベートーヴェンですら苦しみつつ、沢山の美しい音楽を残したのだから、君だって成し遂げるべきだ」と力強く励ましたり、折に触れて支え続けていた。彼の名がドイツ語で「狩人」の意を含むことから、旧約聖書でノアのひ孫として登場する狩の名人ニムロデになぞらえ、第9変奏を捧げている。
「こと緩徐楽章(交響曲やソナタの第2楽章等に多い静かで穏やかな楽章)に関しては、ベートーヴェンを超える作曲家はいないだろう」と、夕暮れ時の散歩時にしみじみと語ったイエーガーの見解に心から賛同した思い出から、変奏の最初の小節はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番《悲愴》の第2楽章が暗示されている。

 エルガーの代表作である《威風堂々》第1番の、とりわけ中間のトリオ部分、後に歌詞も付けられた「希望と栄光の国」が、晴れやかな祝典や卒業式などの記念式典で頻繁に演奏され、気分の高揚を促すのに対し、この第9変奏〈ニムロッド〉は、同じく崇高な印象の名曲でありながら、逆に要人の追悼といった厳粛な場で奏されることが多く、心からの感謝の念や、平和を願う想い、深い癒やしがもたらされる。

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