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~ 遥かな恋人に ~ シューマン 《幻想曲》 ハ長調 Op.17


   色とりどりの この世の夢の中
   あらゆる音をつらぬいて
   ひとつの静かな音色が 響いてくる
   ひそやかに 耳をすます者のために

《幻想曲》のモットーとして、冒頭に掲げられているのは、ドイツ・ロマン派の創始者ともいわれる詩人、フリードリヒ・フォン・シュレーゲルの詩の一節である。

 1835年の暮れのこと。
 来たる1837年のベートーヴェン没後10年に、生地であるボンに記念碑を立てようという計画が立ち上げられた。発起人は、F.リストを初め、亡きフリードリヒの兄で、文芸評論家、ロマン主義芸術運動の指導者であるアウグスト・フォン・シュレーゲルらが名を連ねている。
 若きシューマンも、自ら発行する音楽誌〈新音楽時報〉にて好意的に賛同を表明した上で、恋人クララに捧げるべく書き始めていた新作のソナタで、資金援助に一役買おうと試みる。
 結局この話は延期となるものの、2年後に曲は完成し、3楽章形式の《幻想曲》として、リストに献呈された。

《フロレスタンとオイゼビウスの大ソナタ、ベートーヴェン記念碑に捧げるオーボレン》

 これは当初つけられる予定であったタイトルで、
オーボレンとはギリシャ語で「小さな貨幣」の意味で、ささやかな寄付金といったニュアンス。
「フロレスタン」及び「オイゼビウス」は、シューマン自身の性格の二面性を表すペンネームで、フロレスタンは明るく外向的で積極的な面を、オイゼビウスは優しく内向的でロマンティストな面として、彼の書く批評文や楽曲に頻繁に登場させている。

 さらに各楽章には、
 第1楽章 〈廃墟〉〈古城〉
 第2楽章 〈戦勝記念品〉〈凱旋門〉
 第3楽章 〈栄光〉〈星の冠〉 
 といった副題も考えられていたが、出版社と折り合いがつかなかった為、先の長いタイトルも含めて最終的にはすべて削除、ただシンプルに《幻想曲》とだけにされる。
 楽章ごとの指示は、あえてドイツ語で書かれている。それまではイタリア語による表記が主流であったことに対し、シューマンはドイツ・ロマン派の自然なスタイルとして、ドイツ語表記を取り入れるよう推奨していた。

──《幻想曲》は、ロマン派音楽の大憲章──。

 そんな風に称賛されるほど、この曲においてシューマンは、それまで誰も到達し得なかった新たなる境地を開拓した。独自の幻想性と即興性、後世の作曲家らにも影響を与えゆく調性の曖昧さ。曲の途中に現れる「伝説の音調で」といった、謎めいた指示などが幻想性を際立たせている。
 古典様式にとらわれない自由な形式でありながら、各楽章の主題が密接に関連することで、全体の統一感が保たれている。

「完全に幻想的に、そして情熱的に演奏すること」
 という指示で始まる第1楽章。

「幻想曲を完成させました。第1楽章は、これまでにぼくが書いた曲中、最も情熱的な作品と思っています」

 クララへの手紙にも書かれているとおり、堂々たる左手の分散和音に乗せて、右手のオクターヴによる主題が高らかに歌い上げられる。

 シューマンのピアノの師にして、恋人クララの父親であったヴィーク氏の猛反対により、当時は逢うことも、文通すらも許されなかったクララへの深い愛情と哀しみ。想いを断ち切らねばならないのか? という絶望の淵において、作曲だけが恋人に気持ちを伝えられる唯一の表現手段だった。

「1836年の不幸せな夏を思い起こすことで初めて、あなたは《幻想曲》を理解できるでしょう。当時、自分はあなたを諦めすらしたのです」

 そうした想いと重ね合わせるかのように、ベートーヴェンの歌曲集《遥かな恋人に》第6曲の、憧れに満ちた旋律が効果的に引用され、第1楽章は静かに結ばれる。

 第2楽章は、祝典行進曲風の威風堂々とした主題で始まり、やがてはシューマンの際立った特徴でもある、軽快な付点のリズムに支配されてゆく。
 一転して雰囲気が和らぎ、ふしぎな感覚を伴う中間部は、ダヴィッド同盟員(フロレスタンやオイゼビウスを初め、実在の人物をモデルとするシューマンの空想上の音楽仲間)らによる、粋な語らいといったところか。
 主要主題の再現から、徐々に高揚し、力と勢いを増しながら、超絶技巧的な跳躍によって圧倒的クライマックスを迎えゆく。
「調和を保ちつつ、精力的に」という、この楽章への指示は、ともすれば勢い余って破綻しかねない終盤への、シューマンからの親切な警告とも受け取れそうだ。

 第3楽章は、両手の分散和音による美しくゆったりした序奏から入ってゆき、第1楽章にも関連した主題が静かに奏でられ、寄せては引くさざ波のごとく、夢のように詩的な幻想世界が描かれる。
「ゆるやかに、きわめて静かに進めてゆくように」
 遥かな憧れと、確かな愛に満ちあふれる感情が次第に、否応なしに高まりゆき、やがて穏やかな安らぎとともに、曲はそっと終わりを告げる。きらめきながら儚げに消えゆく、明け方の星のように……。

 実は初稿では、第1楽章で使われていた《遥かな恋人に》のテーマが、ここで再び現れる。いったんは忘れられた懐かしい旋律が、何の前置きもなしに、いきなりよみがえって、そのまま曲を終えていく。

 この演出は、胸をぐさりと貫くほどの劇的な感動の効果をもたらしたであろうが、最終的にはこの想いをきっぱり削除したシューマンの冷静な判断は、おそらく正しかったと思いたい。
 かつての遥かな恋人は、生涯を共にする最愛の伴侶となりゆき、もはや遥かなる存在ではないのだから。



      小冊子「名曲にまつわる愛の物語」より




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