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詰め込まないで日常を死守する

何度も書いたけれど、自分の失敗の記録は今になっては宝物になっている。往々にして後になって重い重い足枷になっているのは、間違った成功体験から抜け出せない事が大きな原因になっている事が多い。なんだか最近のニュースにも通じるものがあるけれど、人のフリ見て我がフリを直すネタと思い込んで心頭滅却する。

前置きから脱線してしまった。間違った成功体験の一例をまとめてみよう。

良い仕事とは退屈である、と森博嗣先生は言う。締め切り間際になって慌てて行動して徹夜の連続で物事を成し遂げる。それはそれはとてつもない集中力を発揮できるだろう。締め切り効果とはそういうものである。あらゆるものを犠牲にして一つの目標を成し遂げる。確かに達成感はあるだろう。大きな打ち上げの一つでもやりたくなる。

実際、若い頃はそうやってライフイベントを乗り切ってきた。料理が趣味だったけれど、試験前はいつもカップラーメンと菓子パン、コーラで済ませていた。締め切りが近くなってくると筋トレも疎かになって運動習慣もなくなってくる。最適化、とは聞こえがいいけれど、追い詰められた戦闘機がバラバラと装備を捨てていくのに近いものがある。

ある時から無理が効かなくなってくる。効かなくなってくるどころか揺り戻しも大きくなってくる。バトル漫画で大きな必殺技を放った後でしばしの戦闘不能状態になるようなアレがリアルに起こる。おお、邪眼の使い手になったか、なんて35歳以上にしかわからないネタを呟いている場合ではない。これはあかんと無理はしないことに決めた。

短期集中はかっこいいようで、持続可能性には乏しい。SDGsが流行っているが、自身にも適応しなければあまり大きな器も信頼できない。

村上春樹は毎日決まった時間だけ執筆する。書けなくても書く、を継続していると言う。賛否両論のある氏だけれども、ねじまき鳥クロニクルや1Q84といった大作もその習慣が成しえた事と言えば、なんとなく納得できる。評論家の宇野常寛氏も母性のディストピアを毎日午前中の予定をブロックして執筆し続けたと言う。確かにあの偏愛と熱量はちょっとした情熱の燃焼ではまとめきれないだろう。

日常が崩れた時点で計画に無理がある。大切なのは夢と希望なのだろうか。否、計画とその都度見直す事じゃないか。なんともつまらないところに着地したけれど、つまるつまらないの問題でもない。もしそうだというならば、つまらなくても構わない。

退屈な一年にしたい、と正月にいつも思う。今日は退屈な一日だったろうか。いつもの掃除と一週間ぶんのミールプレップは今日も継続できた。まだエキサイティングなところがあるかもしれない。もっともっと退屈な毎日を設計していきたい。

★noteにまとまる前の思考のかけらはTwitterにあります。


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