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「異国でバラバラ自殺事件じゃん」

自分の人生をリセットしたくて、異国での暮らしを選んだわけではなかった。

私がここにきたのは、あくまでも2015年に交わした自分との約束を果たすためであって、目標のうえに広がる物理的な世界を見るためだった。

リセットしたいと望むほど手放したいものはなかったし、むしろ手放したくないものばかりで、この約束が煩わしいと思うくらいだった。

もうすぐ、日本を離れて6ヶ月が経つ。

半年間、日本の空気を一度も吸うことなく、東京の景色をこの目で見ることもなく、日本チェーン店でご飯を食べることもなく、日本人に囲まれながら同国民として当たり前に認識されることもなければ、“日本の普通”に従って日々を普通に過ごすことすらもなかった。


自分を構成している、どれほどの要素が
日本という国の、日本人という国民性の、日本語という言語の
“普通”や“あるべきとされる姿”に紐づいていたか。

へその緒を切られたようにバラバラになって、ぜんぶ自分の体から、ぽとりぽとりと1つずつ落ちていったように感じる。

20代、女性、フリーライター、千葉県出身、ふたり兄妹の妹、年収額などの人口統計学的な属性から

綺麗めカジュアルなファッションが好きなこと、スタバによく行くこと、SNSのフォロワー数、理想だと思う体型、好みの音楽、心地がいいと感じる街、楽しいと思う休日の過ごし方、どんな友達に囲まれているか
などのあらゆる心理的属性の細部の根の根まで

日本人として、日本社会の中で、自分自身を認識し、他者からも認識されている、という前提で培われてきたものだ。


例えば千葉県出身と言えば、千葉県の特徴や県民性のイメージが(あんまり強くないと思うけど、少なからず)「私」をフィルタリングする。

日本国内で認識されている20代という存在がどういうものか私は知っていて、そのイメージや知識のもと自分はどんな20代を生きたいかを考え、「20代として」生きてきた。

Mr.Childrenが好きだといえば、日本の音楽業界におけるMr.Childrenとそのファンたちへのイメージが「私がどんな人なのか」を認識するための一助として機能することを知っている。

だから話したり、話さなかったり、嘘をついたり、本当のことを教えたりして、他者によって育てられる自分自身のコントロールだって少なからずしていた。

私はその人生で集めてきたものを気に入っていたし、大事にも思っていたし、捨てたいと思っていたわけではない。


でも今は、千葉県を知っている人にも滅多に出会わないし、Mr.Childrenのイメージを持っている人にだって出会わない。

捨てたいかどうかの意志とは関係なく、日本国内でのフィルターや、ジャッジメントの全てが強制的に切り離されて足元にバラバラと落ちていくのだ


──異国でバラバラ自殺事件じゃん

私は私を一度、自殺させたように感じている。


そうしたかったわけではないし、意志的であったわけでもないけれど、生きる国を変えるということは、アイデンティティの基盤を無効化させるリセットボタンを押すことに等しかった。


そして切り離されたものたちの山が、静かに問いかけてくる

「いまの自分は、なにを拾いたいか?」と。


その気になれば、年齢を変えて生きるなんて容易いことだ。

同郷で育った人はここには誰もいないし、1993年生まれだと誰かに教えたことすらもない。

誰も私のことを知らない、誰も日本の社会基盤で、私の何かをフィルタリングしない。“普通”はない。


本当に選びたいもの以外は、選ばなくていい。


ひとつ一つ捨てていくのと、全部なくなった状態でひとつ一つ拾い集めるのとでは、意識の方向が全く違う。例え、結果的に同じものを手にしていたとしても、自覚的である事柄は全く違う。

これが、海外に出た人へのギフトだなと思う。
求めていても求めていなくても、全部なくなる。


その状況下に置かれたときに、なにをもう一度、選ぶのか?


綺麗めカジュアルなファッションがトレンドではなくなっても、好む友達がいなくなっても、素敵だと褒める人の割合が変わっても、他者からのイメージが変わっても

この国でもう一度、「綺麗めカジュアルファッション」を選ぶのか?

黒髪、黒い目を素敵だと、羨ましいという人ばかりに囲まれて、この髪を毎月染めることを選ぶのか?本当に痩せたいのか?

今までの働き方をもう一度選びたいのか?仕事を選びたいのか?


山の中から拾い集める行為は、必ず自覚的になる。

今この環境で、なぜそれを選びたいのかを問わずにはいられない。


日本国内にいながら、「どんな体型だって美しい」と自分で自分の美意識を守っていくのとは、訳が違う。

本当にどんな体型でもジャッジされる場面が極端に減った社会の中で、「どんな体型だって美しい」と思うとき、自分が理想とする体型がどんなフォルムをしているのかは、その状況下にならなければわからないのだ。


拾わなくても、本当に誰も自分をジャッジしない。


そうなって初めて、「じゃあ拾わなくてもいっか」と伸ばした手を引いた場面が沢山あった。

思ったよりも沢山のものを、置き去りにした。

私は山ほどのものを、「日本で生きる日本人として」選んでいたのだ。良い悪いではなくて、事実として。その結果を生まれてから初めて、こんなにも大量に、明らかに、目の当たりにしたと思う。


「100%の自分自身だけの純度で選んだ好きなものだ!」と思っていても、属している環境が多少なりとも意志に関与するのことは避けられない。


社会から切り離されて、別の意味を持つものたちに組み替えられたり、他者評価の全てを失ったそれらをどう拾い直すのか。


“Those who know nothing of foreign languages know nothing of their own.”

外国語を何も知らない者は、彼ら自身の母国語についても何も知らない。

ゲーテの名言の中にこんな言葉があるのだけど、バラバラ自殺事件はこれに近しい経験だろうと思う。

「全く別の人生を、同じ体にインプットする」という経験が与えてくれるのは、自分自身の中身にあるものと、日本という国を見る“新しい目”だ。






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