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類比マッピングによる「めまい」の解釈2-「めまい」別解釈

前に小椋佳の「めまい」という歌の解釈をやってみた「類比マッピングによる「めまい」の解釈」だが、友人から別の解釈の可能性を提示されたので紹介しながら考えてみよう。(コピーライトをクリアしていると思われる歌詞サイトUta-Netにあるめまいの歌詞のURLはっときます)

私の解釈

「時は私にめまいだけを残してゆく」の「私」は、自分の部屋のベッドに寝ていて、「恋人」は少し前に出ていき、それから、その恋人と別れられない自分を見ていると、私は解釈した。「ワイングラスの角氷」の「ワイングラス」はその恋人が飲んでいたお酒のグラスかもしれないという解釈である。この場合、角氷が入っているならウィスキーだろうから、なぜワイングラスなのかというのが多少不自然になる。

友人の解釈

友人Oさんの解釈では、「私」は一人で部屋におり、たぶん、椅子に座って、恋人と別れた遠い過去を回想していて、それがめまいを生じさせている。これなら、ワイングラスの角氷は「私」が水を飲んでいても構わない。ワイングラスで「恋人」と昔ワインを飲んだのかもしれないし、角氷の方がなにかを思い出させるのかもしれない。こちらの解釈の方が自然と感じる人も多いだろう。

二つの解釈の違い

恋人と別れたのが昔か、今かでずいぶん印象が違う歌になる。

別れたのが「昔」の場合、「時」は遠い過去を暗示している。遠く、場合によってはつらい、過去を思い出して、「めまい」を感じるというのはありそうである。この解釈では、時間がたって「眠り」につこうとする「愛」、すなわちもう終わって消えていこうとする「愛」に「ささやいて」、呼び起こさないでほしいと、「ワイングラスの角氷」に呼びかけている。

つまり、遠い過去に「あなた」と別れて、やっとその傷が癒えかけているのだけれど、なにかあるとそれが再び呼び覚まされる。「ワイングラスの角氷」とおなじく、二番の「小舟を運ぶ潮風」も、その過去を思い出されるものの一つかもしれない。

「鏡に映ったあなたのうしろ姿」は、遠い記憶のなかの「あなた」を今に重ね合わせていることになる。もういちど呼び起こされようとする「愛」に決別するために「さようなら」と書こうとして書けず、まだ残る想いに押し返されてしまったということだろうか。

どちらの解釈が「正しい」?

二つの解釈のうち、特にどちらが正しいということはないわけだが、ほんの1,2日別れた人を想うのと何年も前に別れた人を想うのとでは歌のイメージはかなり違ってしまう。そのイメージの違いで考えると4番の歌詞の解釈も変わってくる。

私の解釈だと「暮れなずむ海の夕暮れよ 錨をほどいてゆく船の心留めて」は、「あなた」を船に譬えて、私から心が離れていくのを想い留めてほしいという風に読むわけだが、Oさんのイメージでは、このフレーズは、私の心から愛が離れていくことをとどめたいという解釈の方が自然になる。

暮れかける海の夕暮れは「あなた」の心を留める力はないが、私の心から愛が錨をほどいて行ってしまうことを留めることはできるかもしれないからである。

歌の解釈とは

歌詞の解釈はどのように歌うかの解釈なのだが、結局、自分がどのように歌いたいかということに尽きる。前回、即物的な解釈も示したが、小椋佳のメロディとは合わないので、歌いにくい。前回の私の解釈だと、あなたに呼びかける感じになるし、今回の解釈だと、愛の終わりを海の近くで惜しむという感じになる。整合性という観点からはどちらも成り立つかもしれないが、風景の中の歌ということで見ると私の解釈はまだ即物的すぎるかもしれない。

というわけで、小椋佳の歌としては今回の解釈を取りたい。歌いなおししなくっちゃ。