唇(2013.8 15歳)

「唇って、きっと汚いの。リップスティックで彩っても、もう無理なの。」
 それにしてはグロスで濡れそぼる唇で、レミが笑う。きょとんとそれを眺めていると、彼女はつまらなそうに私を一瞥した。よくある女子大生ファッションに身を包むレミ。指定制服のスカート丈を常に長く保つ女子高生、私。そんな二人が喫茶店でお茶をするのには訳がある。レミは私の姉だ。学校帰りにレミに捕まり、こんな居心地の悪い場所へ来てしまった。
「キスしたり、食べ物入れたり吐いたり、一言で人を喜ばせたり、しなかったり」
「・・・はあ」
「いろんなものに濡れきってるんだもの。綺麗なんて言えないわよ」
 そんなフレーズをうっとりと呟く姉はどこか艶っぽい。レミは恋愛経験豊富だ。先月紹介された彼氏とは、もう別れて次へ乗り換えたらしい。そんなレミの方が唇より何より汚れているのでは?・・・口を次いで出そうになり、思わず唇を噛んだ。
「それなのに巷じゃ、やれボイセンベリーだなんだって煽り立ててる。そんな唇魅力的じゃない。その奥から業が溢れてくるの」
 レミは先程から掴んでいるホットココアのカップを静かに置く。
「何がいいたいの?よくわからない」
 レミは私に何を伝えたいのだ?こんな店に引っ張り込まれて、まさか彼女の哲学をきかされるとは。県内有数の進学校に通う私に、こんな話に付き合う暇は無い。他校の高校一年生は知らないが、少なくとも私の周囲に化粧をしている子なんていない。口紅なんて、私にとっては遥か遠い存在だ。学生の内には必要ないだろう。両親がいつの日かそう話していた。欠伸をしながら思い返す。そんな私の反応が彼女は気に食わないらしい。
「あんたには早かったみたいね。話したくてさ、今。誰でもいいから。もういいよ」
 姉の言葉を耳にしながら、私は先程から弄んでいたストローの動きを止めた。
「ここの喫茶店のコーヒー美味しくないね」
 ぼそりと、ピンク色の口紅を塗るレミを横目に、呟いた。

 外の寒さから逃れるようにして教室に入る。さすがに十月の下旬、早朝の外気が肌を刺す。そろそろセーターを出さないと、そんなことを思いながら自分の席に着いた。
「おっはよー。今日遅いね。そろそろ始まるよ」
 後ろの席のマキが急かす。私は苦笑しながらロッカーへと走った。始まるよ、というのは我がの読書時間のことだ。朝は毎日、この時間から始まる。私もお気に入りの作家の文庫本を今日も持ってきた。
「おはよう」
 ロッカーから次の授業の教科書を探していると、ふいに声が聴こえた。肩ごしに振り向けば望月くんだ。彼の手には私と同じ作者の文庫本が携えられている。学年成績上位者にして、この爽やかなルックス。私は挨拶するのも忘れて、彼の綺麗なアーモンド型の目を見つめるばかりだった。望月くんは不思議そうに小首を傾げると、そのまま教室へと戻っていく。彼から挨拶してくるなんて珍しい。私は自分の頬が随分と熱を帯びているのに気付いた。彼が視界に入るといつもこうだ。調子が狂っていく。自分らしくなくなくなっていくのだ――。
 席に戻ってみればマキが何やら唇をしきりに気にしていた。指でやけにぺたぺたと触っている。私はそれを横目に、彼女の唇の異変に気付いた。
「色が、濃い」。
 やけに鮮やかな色をしている。グロスのような光沢は無く、むしろマットな印象を受ける。そんな、マキに限ってまさか。口紅?そう問うのは躊躇われた。その質問自体が何だか大人びていて、無邪気に笑うマキの姿には似つかわしくない、そんな一種の嫌悪感が私を支配していた。いつからマキの唇は赤かったのだろう。いつも彼女と会話をする時、唇なんてまともに見ていなかった。いつから、だったんだろう。妙な高揚感の感じ取りながら、何気なく教室を見渡す。
「あ・・・」
 思わず声が漏れるのを抑えることはできなかった。一番窓際の席のサユミ、斜め後ろの席のユキ、真ん中の列の前から三番目――つまり私の前――の席の篠崎さん、そしてマキ。私のクラスの女子の中で、彼女達の唇は微かにピンク色に染まっていた。蛍光灯の光を浴びて時折青みを帯びてくる。この教室に、この五クラスの学年に、一体何人が唇を染めているのだろう。その内の何人かはグロス程度かもしれない。けれどこの事実は確実に私を追い詰めていた。レミの昨日の話がふと浮かぶ。どれだけのクラスメートが彼女達の変化に気付いたのだろうか。恐らく少数だろう。
「どうしたの?」
 困ったようにに歪曲するマキの唇に、どうしても目がいってしまう。
「大人になりたいからかな」
 誰にも知られないように小さく小さく呟いてみた。着飾って、まだ子供なその唇に色を加えて、彼女達は満たされるのだろうか。きっと何にも汚されていない唇に、レミの哲学を当てはめるのなら色彩は合うのかもしれない。けれどなんて不釣り合いなんだろう。彼女たちの唇を見ていると息苦しくなってくる。
「皆さん、おはようございます」
 担任の藤田が教室に入る。全員が起立した。サユミが口元を手の甲で拭うのが見えた。藤田はそれを気にも留めず窓の外を見やる。
「今日は本当に寒いわね。」
推定三十代の藤田の唇は、まるで血のように赤黒い口紅が塗られている。レミが言う溢れ出す業は感じ取ることはできない。でも先生は完璧な大人で、その口紅も似合ってる。あの子達の唇と違って息苦しさは感じない。それがなんだか物足りなかった。不思議。私、藤田先生に物足りなさを感じている。しかも唇を基準にして。
 おはようございます、そう私たちは深々と頭を下げる。一日が始まるのだ。ざわつく胸にそっと両手を置く。どうしてこんなにも焦燥感が私を襲うのだろうか。文庫本を縋るように読む。駄目。右から左へ文章が流れていくだけだ。何気なく、窓際の望月くんを見やる。彼はどう感じるのだろう?私がもし唇に色を乗せたら――。

 その日の塾は最悪だった。講師の古文解説講座が二時間、まるで無駄になったようにも思える。私は完全なる上の空で二時間を過ごしたからだ。古文の品詞分解をしながら、今日の教室での私の一つの「発見」にどうしても気が散ってしまう。午後八時の街の闇の中、私は塾後のルーチンワークとしているコンビニへ足を運んだ。塾のあるこの商店街の出口に、薬局と隣り合わせで店を構えるコンビニだ。そこの看板メニューである肉まんとコーラを買い、寄り道せず駅へと向かうのがいつもの私。けれど今日はいつもと違う。私の肉まんへの思いと反して、足はコンビニを素通りしていく。ふらふらと薬局へと入っていく。見慣れないコスメコーナーへと足を運んでいく。
 気が付けば、大量のリップスティックを眺めていた。店の片隅にそっとしゃがみ込む。ピンからキリまでの様々な値段・ブランドのものがズラリと並んでいる。化粧品に疎い私でも知っているような、女子高生に人気のあるプチプライスなコスメブランドの棚へと近付く。ミルキーキャンディ、ボイセンベリー、クリームオレンジ、ストロベリーシェイク・・・何がなんだかわからない商品名が踊る中、私はレミの話の中に登場したボイセンベリーを手に取った。予想以上に濃い鮮やかなピンク。こんなの誰が使うのだろう?一番薄いピンク色のリップスティックを片手に、レジへと進む。
「・・・買っちゃった」
 肉まんとコーラではなく、遂に私は購入したのだ。軽蔑していたはずのそれを、私はあえて自分から選び取っている。その事実に自分自身戸惑いながらも、体は勝手に動き出す。薬局から出て、リップスティックをそっとトートバッグに忍ばせる。焦るように足を速め、視界に入った証明写真機に駆け寄った。少し曇った細長い鏡がそこにはある。照明の明かりがやっと差し込む、そんな暗がりだ。時間も時間で商店街に人影は少ない。リップスティックの蓋を開けて、そのピンク色をほんの少しだけ繰り出した。鏡に近づいてそれを唇へと運んでみる。やけに無機質な冷たさが細かく震えながら、私の唇の端を走る。
 下唇の中央に口紅が辿り着く、その瞬間だった。
「っ!」
 寒さにかじかんだ指がリップスティックの方向を狂わせた。いとも簡単に私の手から地面へと転がっていく。暗がりで何も見えない。ただそれが転がり続ける音だけが聴こえる。音の方向に、手を伸ばす。カチカチと、あのプラスチック製容器に石畳がぶつかる。嗚呼、今、鈍い音がした。指が虚空を掴む。
 瞬間、望月くんの顔がよぎった。
 ――かぽん。
 大きく水音がした。街灯の下に私は立ち尽くす。身の毛がよだって、衝動的に唇をブラウスの袖で拭った。白い袖が一瞬で汚れる。想像以上の鮮やかさを、そのピンクは秘めていた。夜の甘酸っぱい渦の中、胸奥がぎゅっと絞られていく。

「あたしにはいらないんだっけ」

                      
                       ――完――

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?