『華麗なるギャツビー』宝塚版、映画版を比較して思うこと。
先日急遽行けなくなった人の代わりということで、本当に急遽、宝塚の月組観劇をして参りました☆★(๑>◡<๑)
今日はそんな芸術作品について考えてみるnoteでございます(⌒▽⌒)
『THE GREAT GATSBY』
映画版も観ずに、初見がこちらの宝塚になってしまったのですが、、、、
想像以上に悲劇的な、儚い内容に衝撃を受けた私は、帰ってから映画版も見直してみたんです。
こちらの作品、
映画ではデカプリオ様が主演の
『華麗なるギャツビー』と同じということで、
こちらも軽く(チビチビ飛ばしつつも)比較として見てみたのです。
有名なお話と思おますので、
あらすじなど書くのは控えますが、、、
ギャツビー死後のデイジーの取った行動の差に、宝塚版と映画版の大きな差を感じ、そこからも様々な描写や、色んな捉え方が生まれるなと感じましてそこもまた美しいなと思ったのです。
相思相愛だったギャツビーとデイジーの2人ですが、、、ギャツビー死後の葬儀に出るか否やの話の際、
こういった演出の差があるのです。
こういった点が気になるわけで٩( 'ω' )و
いやぁ〜こう思わせてくる文学って本当に素晴らしい。美しいなと感じたジプ子なのでありました。
んで、、、結局のところの私的見解ですが、
映画で描かれているのは悪女としてのデイジー。とすると、
宝塚版ではそうではないのかも…?と。
宝塚版でのデイジーが、
葬儀の場所に実際足を運んだこと、
そして、思い出の白薔薇を投げ入れたことから、
自分の罪を被ってまで狂ったように愛してくれた彼への想いからくる後悔の怒り…
そして結局は叶わなかった恋愛への怒り…
現実の不条理さへの怒り…
これらの感情全て込めると、
泣きじゃくるように薔薇を入れると思うんです。
なので、無言にも吐き捨てるように、冷静に花を投げ入れたのは、デイジーからギャツビーへの愛の表れなのではないかなと感じました。
すぐそばに夫がいることもあり、
なかなか感情的になれなかったのもそうだと思いますが、彼女ができる最大限の弔いの形だったのではないかと。
私は宝塚版を観劇して思ったのでした。
ちろっと観劇するだけのつもりが、
こんなに考えさせられるなんて、、、笑笑
やっぱり舞台っていいですわ♪( ´▽`)
自分でも言ってることよくわからない〜
かもしれない〜
でもなんかnote書いてスッキリしました笑笑
それではまた♡
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?