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私のアダルト界隈(?)進出について①

お久しぶりです。
TikToker Yu Ki🐣🌙です。
今回は、表題の通り”アダルト界隈進出について”について書きます。
賛否両論あるかと存じます。

読者は何かしらの興味があるから記事を開いてくださったと考えています。
無関心という選択肢を除外したならば
アダルト界隈に限らず、変わったことをする人に対し
偏見を向ける側になるのか
それとも、主観的に見届けるのか。
今回の記事を通して
考えていただけるきっかけになれば、幸いです。

また、このテーマの記事はセンシティブゆえに先に断っておきます。
完全主観で書かせていただいております。
よろしくお願いいたします。
*少し長ったらしくなったので、目次すごく少なくしました。

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目次
①女性が脱ぐと失う事、得る事
②私が普通を捨てる理由
③まとめ

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①女性が脱ぐと失う事、得る事

さて皆さんに質問です。
女性が脱ぐと何を失うと思いますか?

”純白さ” ”清純さ” ”品位” ”人権” ”価値”

では反対に、何を得ると思いますか?

”承認欲求と見せかけた大衆の下心” ”すけべな人からのDM” ”お金”

こんな感じでしょうか、巷でよく見受けられるのは。

また、男女問わず脱ぐことに否定派の人はよくこう言います。

「金がない貧困だから脱いで稼ぐしかない」
「そんな人間に一般的な人間の価値はない」
「脱ぐしか売るところがない」
「親が悲しむ」

これらは一体、本当なのでしょうか。



私は、
失うものは ”既存の自由がある普通の生活”
得るものは ”創造の自由がある特別な生活”
だと考えます。


既存の自由のある普通の生活とは、
SNSで自発的に発信せず一般的な自由を持つ人の生活をイメージしたらいいかと思います。
つまり、情報を受け身で受け取っている人の生活です。

TikTokは見る専。Twitterも何もかも。
そういった人には、ある程度の制限はありますが(法律など)
基本自由です。何を言おうが責任を問われません。
生まれながらに補償される表現の自由のようなものです。

例えば、ディズニーランドなどで踊るTikTokの動画を見て
「なんて常識のないやつだ、頭悪すぎやろ」
って言う事ができる人のことです。
*最近では誹謗中傷禁止などで自由な人の立場への制限範囲が広がりつつありますが。

創造の自由がある特別な生活とは、その反対です。
SNSで自発的に発信し、自分で固有の自由を生み出す人の生活です。

例えば、TikTokで少し刺激的な動画を配信する人のことです。
この人には、制限が生まれます。
多少のファンができるようになることはいいこと(人による)だが、
その分、動画や写真を無断掲載されてしまうようや弊害もある。
その結果、悪用され街中でもインターネットでも
生きにくくなる可能性があります。
*必ずしもそうとは限りませんが、可能性の話です。

しかしながら、自身の取り巻く環境下でしか見出せない固有の自由を自分自身の努力で手に入れることができます。


女性が脱ぐと、リアルな話、偏見の嵐です。

友達を失います。
恋人を失います。
最悪家族も失います。

でも、成功したら絶賛の嵐です。

元友達は手のひらを返してきます。
元恋人は周囲に自慢し出します。
一応書類上の家族は否定した過去を忘れます。

なんだか、このように比較すると
前者の方が生きやすくない…?
なんて思うかもしれませんね。

でもね、私は、後者の生き方を好みます。
なぜなら、既存の自由が、普通で生きることが、苦痛で仕方がないのです。

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②私が普通を捨てる理由

結論から言ってしまうと
普通でない方が幸せを感じるからです。



現在に至るまでの21年間、普通であることを強いられてきました。

中学時代、部活動や人間関係で必死で周囲に合わせてきました。
なぜならみんなと違うことをしたらいじめられるから。

高校時代、進学校で”勉強が全てである”と教育をされてきました。
勉強して”いい成績”がないとクラスで立場がない環境下にいたから。

大学時代中盤、やっと気づきます。
「人生に対するこの倦怠感は本当の自分と向き合っていないからである」と。
実際問題、哲学的に言うと本当の自分なんてないのだけれど
それに気づくのは3回生の冬に放浪したイタリアでブラッチャーノ湖を眺めていた時です。
大学生中盤までは上記の悟りが私の全てでした。

大学の中盤まで、いつも何かに悶々としていました。
あんなにも苦しんだ期間はないと思います。

退屈で退屈でしかたながなかったです。
退屈は私に苦痛を与えてきます。

何かクリエイトしたい。
何か挑戦したい。
この好奇心を表現できる環境に身を置きたい。

みんなと同じレールを歩んだ先に、自分はどうなっているんだろう。
自分らしく生きることができるのかな。

自分という生き方は自分にしか歩めないはず。
では、自分だけのレールを歩むべきだ。


大学生後半でやっと、言葉の語尾が「〜したい」というwantから「〜するべきだ」というshouldに変わりました。

言葉が変わると行動も変わる。
行動が変わると周囲の環境が変わる。
環境が変わると周囲の人が変わる。
周囲の人が変われば自分自身が変わる。
嘘のように思いますが、本当にそうです。
人生の成長はこのサイクルでできています。

また、何かを始める時、何かを捨てなければならないのも悲しいけど本当。
私は、大学3回生の当時2年近く付き合っていた恋人を捨てました。
うん、捨てた。その表現でいいです…。
私が悪者だから、認めましょう。
安定は、成長を阻害する要因である。
恋人を捨てて、一人になった時、やっと頭の中に”自立/自律”という言葉が出てきました。

自分の人生を歩む準備を、やっと始めたらしい。
そんな気がした。

みんなと違うことを始めて、賛否両論浴びました。

「あいつマルチを始めたらしいで」
「薬してるらしいで」
「人生失敗してる、わろた」
「うちらと合わんくなった」
「セフレ10人いるらしい、友達おらんから」

たっくさん言われました。

でも落ち込むことはなかったです。
むしろ嬉しかったです。
逆境こそ、美味しいものはないと思うからです。
偏見があるものこそ、価値があると考えています。

今は特別なにも掴むことができていないかもしれません。
これといった成功事例はないかもしれません。
しかしながら、自分で自分の首を絞めて制限をあえてかける。
その中で自由を創造し、もがき苦しみ、何かしらを生み出そうとする。
この生活が、私に生きているとすごく実感を与えます。
だから、私に普通なんていりません。

今を、生きていると思えるだけで、楽しいです。

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③まとめ

女性が脱ぐと
普通を失い、特別を得ます。

賛否両論ありますが、当事者の女性が受け身でない限り
誰にも否定する権利はないはず。

自分なりの生き方を見出そうとしているだけです。
その道が、たまたまみんなの偏見の集中点なだけです。

みんなさん、きっと理科の授業でも習ったと思いますが
太陽の光を一点集中させたら紙が燃えたと思います。
その集中点には燃えるほどの負荷がかかり、燃えて灰になるしかありません。

でも人間は違います。
集中点にいる時は高負荷がかかりとても苦しいけど、
その苦しみが成長のエネルギーとなり
自分が太陽のような光を出せるようになるのです。

偏見を向けるのか、それとも一緒に新興の光を創造するのか。
関わり方はあなた次第だと思います。

少なくとも、私は光を生み出せるように、歩んでみせます。

どうか、そばで温かく見守っていただけたら。
そんな甘えたことは大きな声で言えませんが。

__________

随時更新します。
お楽しみに。

にゃんっ🫠

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