見出し画像

僭越ながら...私、工藤雪枝と岸恵子様の共通項

このタイトルからして実に恐縮してしまうぐらいのMme Keiko Kishi。2021年5月に放送された「徹子の部屋」に出演されたときは御年、88歳であられるこの気品と美貌あふれるマダム岸恵子様。実にあっぱれと言いたくなるようなお美しさと気品であったのである。

画像1

一方、この私のモノクロ写真、全く私にて岸恵子様といかなる共通点があるのか?とお叱りを多方面から受けそうな私、工藤雪枝である。しかし!実に多くの共通項があることに私にて気づきました。いやはや恐縮しつつ、僭越ながらこの文章を書かせていただくに到るまで随分と私にても躊躇したほどの尊敬の対象たるマダム岸恵子様であられるが、いやはや、実に共通項を性格や人生の生き方にても多々発見したので、私において、我が表現欲を制御すること不可能なる今の我が境地にて、ご寛容にお許しいただきたい。

美幌峠(協会)

まず、第一のご縁は何と言っても、私が生まれて4歳まで住んだこちら北海道美幌町の美幌峠などが、岸恵子様が主役の大ヒット映画「君の名は」に登場し大きな意味を持っているというご縁。

画像3

その映画にご出演された際に有名になったこちらの写真の真知子巻き。このストールの巻き方も大流行したことは、私にて、1965年生まれというこの映画「君の名は」のヒットのあとに生まれた存在でも当たり前のように知っている。否数十年前に我が父親から教えられたのである。

その「真知子巻き」も含めて、映画「君の名は」への我が想いはわずかな行数ではあるが、このNOTEブログの、投稿、「グーグルカスタマーサポートに費やすクリスマス」という我が記事にも書かせていただいた。

しかし!私にて、岸恵子様のことは私一人勝手に気になっていたのはあの大大大ヒットした映画「君の名は」の、タイトル、「君の名は」とインターネット検索してみると、もっぱら出てくるのは以下の全く、本来の岸恵子様が氏家眞知子役として有名になられた、本来の、「君の名は」の情報がトップ検索に表示されていない。この事実に私においてはインターネットたるものが出来て以来、この、「君の名は」という本来1950年代に制作された、時代や場所を超えて残されるべき正確な情報が歪められていることにいささか、不満を感じてきた昨今だったのである。

画像4

上記の写真は、インターネット検索で表示される、全く本来の「君の名は」とは無関係と思われる、アニメの「君の名」はである!

私にては、そのストレスとインターネットの不正確さとの両方は、私自身が自分の名前をエゴサーチというか、正式には自分の名前をコンピューター、フランス語ではオーディナトッアーにて入力してみても不正確なる情報や全く自分とは無関係な写真などが出てくることに私にても大いなる不満とストレスを感じてきた。

しかし、だからといって、一人勝手に岸恵子様の了承もまた、ご本人の感覚やお気持ちもうかがわずに上記のような問題点をネット上で指摘するのは私において、岸恵子様を違法に代理、法律で言えば表見代理していることにならないか?とも想い躊躇してきたこの数年!

でも先月、即ち、2021年4月、5月あたりから、私において、この点も含めて私と岸恵子様の実に痛快な共通点を投稿すべきだと思いたったのはこちら、朝日文庫から出版されている、「私の人生ア・ラ・カルト」を拝読し、岸恵子様におかれて、私、これまでの仕事上でも「国際ジャーナリスト」と同様、岸恵子様におかれて私と類似する想いや、同時に言葉や真実への正確性への拘り、権威主義的でない感覚、愛情豊かでありながら、個を大切にする一方で自分の家族以外の世界中の多くの難民とか弱者とよばれる存在への並々ならぬ愛情と寄り添う気持ちをお持ちであられる。またこれが痛快なのだが、私同様に天然的三枚目というエピソードを多く岸恵子様もお持ちであることが分かり、こうして投稿することを、私にて決意するに到ったのである。

画像5

こちらのご本、エッセイとしてもまた深みのあるジャーナリスティックな観点でも実に素晴らしいのですが、でも私にては1)岸恵子様の三枚目ぶりに私とそっくりと驚き 2)横浜の港北区妙蓮寺あたりに住んでいたこともあるという共通点に驚き、3)また真実ということをきちんと伝承かつ継承していくという信念におかれて、私の感覚と似た意識にて共感し 4)実にドジなるエピソードという上記の本の帯の如く、私もお恥ずかしいことに、「あら、やだ」とでも自分でも真剣ながらとんでもなく、トンチンカンなる行動のエピソードの多きこと、嬉しいほど私と岸恵子様はこの点でも似ているのです。

また真知子巻きも含めて、あえて訂正すべき章や文章は、上書きせずに、きちんと、「後記」と書かれて、あえてその変更過程を明らかになさっている岸恵子様。まさにロイター通信社含めて世界の3大通信社にて、デジタルやインターネット上でもそのような編集過程をすべて明らかにするという方針に通じる感覚であり、日本のジャーナリストやメディア以上に、岸恵子様は「ジャーナリスト」として一流であられるのである。

さらにドジなるエピソードなど、また書き手としての観察眼なども素晴らしく、本当に、フランスの有名俳優、アランドロンとの抱腹絶倒のエピソードなど、私にてこの数カ月、何度読み返して大笑いしてきたかというほど面白すぎます、岸恵子様!

このアランドロンも出てくる抱腹絶倒、かつフランスのエスプリ満載のエピソード、ご関心のある方は是非、上記の本にてご確認あれ。私にてはあれほど面白いエピソード、ルポルタージュは私がここで披露するのは失礼だけでなく、あの岸恵子様の文章力故という点にていささか憚れる次第である。ちょうど最近、自伝であられる「卵を割らなければ、オムレツは食べられない」(岩波書店)から上梓なさったばかりでもあられる。

さて、さっそく、私にても郷愁の想いにかられながら読んだ、「美幌峠に降った雪」というあたかも、我が名前、我が生まれ故郷、北海道の美幌町を彷彿とさせる名前の章から失礼ながら、皆様方の誤認識を解くために引用させていただきます。

美幌峠に降った雪、「私の人生ア・ラ・カルト」文庫版239ページより。

「薄れ、歪んでいく記憶の中で、私が書きたいのは、映画製作におけるその時代の気分や習慣である。「君の名は」が風靡したころの日本は貧しく、必然的に生まれたのが映画の黄金時代なのだが、それにしてもニュース三面鏡の記事中で誰かが語ったような状況ー話題作りのため宣伝担当が真知子巻きなるものを買い、ヒロインの首に巻きポスターを作り、細野デザイナーが本番に採用したーはあり得ないことだった。

今でこそワダエミさんの衣装がアカデミー賞を受賞するなど、映画衣装が当然のことながら脚光を浴びるようになったが、当時は映画会社の衣装部がすべて担当し、特別な衣装に限り名手・細野久さんに委託したのだった。彼は抜群のセンスと技術を持つ私の好きなデザイナーだった。が、誰であれ監督を差し置いて採決することは絶対になかった。

「君の名は」二部で、東京はまだ残暑であったが、ロケ地の美幌峠はさぞ寒かろうと、私は普段愛用していたフランス製の白く長く美しい手編みのストールを持参した。案の定、美幌駅で雪が降り、細野さんデザインのプリンセスラインのコートはVネックが深く開き、私は件のストールを被って監督の意見を聞いた。

大庭監督は独特の皮肉と優しさの混じった笑いで言った。

「真知子さんが急にカチューシャになったようで、どうも......」

確かに真知子は和服が多く、黒い瀟洒なコートに純白のストールではシルエットが急に洋風めく。ところが、次のロケ地、白樺林に入ると雪は目立ち、寒さが深くなり、監督が不承〜ストールの使用をOKしてくれた。後に言う真知子巻きを、私は監督の真意を汲んでこのシーンでしか用いなかった。それが一世を風靡するとは誰も予想しなかった。

流行は仕掛け人の手を借りず、町に溢れ、それを宣伝担当だった関口俊秋さん(関口宏氏の叔父上)が、真知子巻きと名付けた。生みの親は美幌峠にあの日降った雪なのである。

後記

真知子巻きとキャプションをつけてたびたび映画雑誌などで紹介された数寄屋橋で撮られたスティール写真は、ただの防空頭巾をかぶっているもので、真知子巻きとは似て非なるものであります。

(以上240ページより)

以上が正確な本来の「君の名は」であり、同時に「真知子巻き」エピソードである。

実は他の章にも岸恵子様にまつわる、実体験の面白いエピソードが満載で、またそれは実に我がドジエピソード満載の私の人生とも相通ずるものが多々あるのですが、岸恵子様に失礼があってはならぬという想い。加えて私を昭和40年3月14日、という大雪の中、タクシーさえもこない状況下の北海道美幌町で、我が父が我が陣痛状況にあった我が母をおんぶして、病院まで走ったという事実に想いを馳せて…。また同時に結局は就職しなかったものの、我が父にては昭和30年代にて映画会社、東映から就職内定をいただいていたというご縁。さらには、奇しくも本日、2021年6月7日が我が父の87歳の誕生日であることなどを想うに、私自身がなんだかしんみりと想いに伏せる感慨と感涙の気持ちになった故に、面白エピソードの披露はまた別の機会に、きちんと岸恵子様のご承諾をいただいた上で行うべきだと考える次第です。

ただ、我が父の誕生日ということで、またいかに正確な情報や真実が、わずか数十年の間に、インターネットやデジタルという環境下にて曲げられてしまうかということへの私の危惧と、同時に我が父の教養と知識にて私が知るに到った通称、ノルマンディー上陸作戦、フランス語ではDébarquement De Normandie  と呼ばれる世界史上でも重要な位置づけを占める事実においてどんな背景があったのかという、「情報伝達」の正確さと正しさが、いついつまでも永遠に担保され実現されることへの我が願いと共に、また我が父への尊敬と感謝の念と共に書かせていただきます。

時は1944年、6月5日(le 5 juin 1944 au francais ) ノルマンディー上陸作戦(=正式名称はOperation Overload 作戦実施日にちは1944年6月6日) に際して、BBCの英国ロンドンのフランス語専門のラジオ放送局たるRadio Londre から、le 5 juin , 1944 に以下のラジオ放送がフランスのレジスタンスの人々の為に(注、軍事作戦用の暗号は全く別に存在する。これはいわゆるシビリアンのレジスタンスの方々の為にラジオ放送にて送信されたのである)ドイツ軍にばれないように、実に間接的である手法、具体的にはフランス人詩人のPaul Verlaine の日本でも有名な「Chanson D’autumn 」のフレーズと、モールス信号、フランス語とフランスの習慣を理解する人々へ向けて発信された真実のラジオ放送である。

放送は以下の通り(工藤注、このNOTEブログでは正確なフランス綴りが入らない故に不正確な文字はご寛容にご理解頂きたい)。

« Ici Londres ! Les Francaise parlent aux Francaise … » « Les sanglote longs des violons de l’autumn » « Blessent mon coeur d’une langueur monotone ». « dot - dot - dot - dash »

この放送の意味は、48時間以内に上陸作戦が開始される事を伝えつつ、最後のdot - dot - dot - dash はベートーヴェン作曲の交響曲5番。フランス語綴りでは5=V。
Vというのは軍事用語でも、欧州、少なくとも英国では誰でも言える商業用語でも綴りと言い方は、V for Victor  or V for Victory である。

でもこの放送時にては、ノルマンディー上陸作戦という実に困難を極め、勝算さえ全く未知数であったが、このdot - dot - dot - dash はモールス信号で送られていて、まさにベートーヴェン作曲の交響曲5番、「運命」の出だしの第一楽章の音楽的冒頭をも意味しているのである。

このメッセージはその後、特にフランスでは有名になり、Musée du 5 juin 1944 « Message Verlaine «  という名前の博物館も現存する。

私にてはパリのフランス国立高等防衛研究所を卒業しながら、実は情けなくも昨日、2021年6月6日、まさにDDAYの日に、我が父親から(私もヴェルレーヌのこの有名な詩のことは知ってはいたが)そんな「伝達方法」が実際に行われた事を昨日我が父親から教えられて初めて知ったのである。

改めて、今、思う。私は現在56歳だが、いつになっても我が父と母の高みと有難さを超える事は不可能であると…。

あえて東映に入社することより、我が曽祖父の武士だった武士道精神の如く「世の為人の為」という理由で中央大学法学部を卒業後、幹部自衛官になった我が父。でも自衛官でもこのMessage Verlaine のことなど知らない方々が殆ど、否皆無かもしれない…。

あたかも「クレオパトラの鼻がもう少し高ければ世界は変わっていた」と言わんばかりに、我が父は「私が東映に入社していたら、美人女優と結婚していたかも知れず、故に雪枝(=私)や正秋(=弟)は生まれていなかっだだろう」などど、我が母に失礼なる冗談を頻繁に語る我が父親である。

でも、本当に、昨日にて、また岸惠子様との「ご縁」にて。また「国際ジャーナリスト」として、共に正しい真実や事実や想いや価値を伝えることの重要さにて、私においては、岸惠子様のこと。真知子巻きのこと。「君の名は」のこと。そして平和が実現され、未来永劫戦禍や戦争やテロなどが起きぬようにと願いつつ…。その実現の為には如何に正確な事実や真実の電達と言葉を大切にする文化と教養が昨今の「インスタ映え」とも呼ばれるような表層的物資社会が益々加速する昨今、如何に必要か!そんな我が想いと同時に、私にての無知や未熟さへの反省と、今日が誕生日である我が父の為にも、岸惠子様の為にも、同時にノルマンディー上陸作戦にて、またそれ以前もその後にも失われた尊き人生と生命全てへに想いを馳せて、この投稿を終えたいと思います。

工藤雪枝より

後記 この投稿のモールス信号に関して。このテーマで有名になった映画ーパリは燃えているか?のジャンバルデルマス役を演じたのがアラン・ドロンである。我が父にしても、私においても鑑賞済み。同じ映画に出演なさったレスリー・キャロンさんは、私が発起人となって外国特派員協会にて私が通訳をつとめ、記者会見を開いた際の担当も私が行った。

それで、後記を書く前に、著作権法上問題はありやなしやーそんなことの問題などないことは私において東大法学部、しかも著作権法が科目になった最初の世代の昭和63年卒故に、また我がメディアの仕事故に問題などないのは実に分かりすぎるほどわかっている。フェアユースにおいて、岸恵子様のあるいは、中央公論社のあるいは他のクリアランスをとる必要さえもない。そもそもこの文書自体、岸恵子様のメリットがあるだけで、私のために書いた記事でもない。

しかしながら、連絡先が分かりにくい事務所を私にて探し出し、念には念をということでご連絡を差し上げたところ、実に不愉快な、不遜なる対応を受けた。全く誰のためになんの為にご連絡を差し上げたのか、全くご理解いただけない体たらく。我が記事を読んでいないふりをしながら、もうお読みになっていて、それで、いちいち、文句を言われたりするのには私もまいった。そこまで高圧的に言われるのなら、私にては岸恵子様の事務所から指示されたわけではないが、トップの写真を変更させていただく。

まったく、岸恵子様におかれてのエッセイでbarbie裁判のことも少しばかり言及された章があれども、全くアラン・ドロンとの関係性ーつまり映画においてーにも気づいておられない。これでは全くもって国際ジャーナリストなどと岸恵子様におかれて自称される権利や資格などないということを、後記にて訂正させていただく。また、あえて追加するといわゆるBARBIE裁判の弁護士の名前を岸惠子さんのエッセイにては全く誤認識なさっておられる。これは私から、事務所宛てへの電話時にご指摘はしていないが、「私の人生アラカルト」(岸惠子著)にはその点で事実誤認がある故に、ここに後世及び世界にきちんと、正しき事実が伝わるべく書く。

またアランドロンはマルセイユ生まれで16歳でフランス海軍に入隊した元海軍軍人である。そう考えると、あの「私の人生アラカルト」のアランドロンとのエピソードも真実か否か、私にては、何だか信じられなくなってきた。 

工藤雪枝よりー2021年6月25日、日本時刻、03h23



サポートしていただいた場合は、さらなる分析や取材のために使わせていただきます。工藤雪枝