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「その先」は、続けた人しか見ることができないから

最近、よく考えていた。

陶芸家として生計を立てるなんて夢は諦めてサラリーマンに戻れば、金銭的な不安は消えるんじゃないか」って。

個人事業主として開業届を出して2年目。いまだに陶芸の仕事でしっかりお金を稼ぐ、というのができないでいる。時給換算すると、雀の涙ほどの額になってしまうのが現状だ。

「自分で稼ぐ経験をしたことのないサラリーマンがフリーランスになっても稼ぐのは難しい」と誰かが言っていた。

間違いない。

何かを売るということは、市場のニーズを汲み取り、自分で価値のある商品を生み出せるということ。ものを売る経験がないということは、市場のニーズや商品の価値を見出す訓練不足とも考えられる。

私は「いい学校に行っていい会社に就職すれば幸せになれる」という教育を疑うことなく学校へ行き、新卒で就職した。課題は与えられるものだし、仕事は降ってくるものだった。何の価値を生み出していなくても、毎月20日に給料が振り込まれた。

そんな私が、市場のニーズを理解し、価値のある唯一無二の商品を生み出すのは、無謀というものだ。

それは、自分でもわかっていた。

それでも「私ならなんとかできる」と信じて会社を辞め、陶芸を始めた。

私の作ったものを買ってくれる人がぽつぽつと現れた。何度も注文してくれる人もいるし、たくさん買ってくれる人もいた。

「これならやっていけるかもしれない」と、かすかな希望に胸を躍らせた。

でも、やはり生活が楽になるほどの収入にはならない。恥ずかしながら、他の仕事もしてやっと生きていける、という程度だ。継続的に自分で商品を売り続けるというのはとても難しい。

商品を売る以外にも収入を得る方法はいろいろある。でも目の前の制作に追われて手が回らないのが事実だ。もっと効率的に作れたらいいのだけれど、どうしても質を求めて手間と時間を掛けてしまう。質のいいものをもっと早く作れるようにならなければならない。

今は、時給300円にも満たないような仕事のやり方をしてしまっている。これは自分の効率の悪さもあるし、工数予測の甘さもある。すべて自分が招いたことだ。決して誰かのせいにするつもりはない。

ただ、「収入にならなければ続けていくことは難しい」という先人たちの言葉が頭の中でリフレインする。


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自分の好きなことを仕事にするフリーランスとして、継続的に収入を得る難しさを痛感する一方で、どうしてもこの道から離れられない理由がある。

前職を辞めた理由だ。

申し分のない優良企業で、ホワイトな働き方ができ、収入は十分すぎるほどあった。人間関係も良好で、優しい人たちに可愛がられて働いてきた。

それでも私は辞めたいと思った。

自分が何をしているのか、そして自分の仕事で誰が笑顔になっているのか、まったくわからなかったからだ。

そんなのわからなくても仕事はできた。でも私は、働く喜びを感じることができないことが苦痛だった。「なんのために頑張っているのか」、自分で自分をモチベートできる働き方がしたかった。それは人生の満足度に繋がるような気がした。

上司はよく「人生の時間の大半を仕事に費やすのだから、楽しく働こうよ!」と呼びかけていた。

私は同意した。楽しくないまま働いていたら人生は楽しくないことに埋め尽くされてしまう、と。それはよくない、と。

だけど、どうしても楽しくならなかった。仕事で使うアイテムを変えたり、タスク管理の方法をいろいろ試したり、メンタルコントロールをしてみたりしたけれど、どれも効果がなかった。

根本的に、何かが違うと思った。

その違和感の正体を何年も探し続けてたどり着いた答えが「これは自分の好きなことではない」だった。「自分は何も生み出していない」ことが苦しみになっていたし、「そもそも会社の製品が好きではない」とか「自分の名前で戦えない」といったことも関係しているようだった。

きっとまたサラリーマンに戻っても、このジレンマに苦しむのだと思う。


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「得意なことでマネタイズして、好きなことは趣味にしておくのがいい」と考えることもできる。

でもそれは嫌なのだ。

私は陶芸を趣味で終わらせたくないし、自分にしか作れないものをこの世に残したいし、「私の作ったもので誰かが笑顔になる」という仕事をしたいのだ。

見苦しいかもしれない。
諦めが悪いのかもしれない。
ビジネス的には正しくない判断かもしれない。

でももう、私にはこれしかなくて。

陶芸をやって生きていきたい。
陶芸を生業にしたい。

そう思ってしまうのだ。


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もし今、「陶芸を生業にする」という夢を諦めてまた会社員としてコツコツ働き始めたとする。

そうしたら、陶芸を生業にしている自分を目にすることはできなくなるだろう。これから作るであろう作品も生まれないし、この道を進んだ先に出会うであろう人たちの顔も知ることはない。

夢の「その先」は、続けた人しか見ることができないのだ。

「諦めたらそこで試合終了ですよ」という名台詞が突き刺さる。一度終わった試合には、二度と挽回のチャンスが訪れない。もう少し粘ったら勝てたかもしれないのに、終了のホイッスルが鳴った瞬間にそんな未来は崩れ去る。

同じだ。人生も。夢も。

諦めなかったら、逆転のチャンスを掴むことができるかもしれないのだ。

もちろんそのまま負け試合になるかもしれないけれど、学生時代の部活の試合を思い出してみても、粘らずに諦めた試合ほど味気なく、心も動かなかった。必死に粘ったのに負けてしまった試合は、心底悔しいんだけれど、満足感があった。

ゲームの序盤で失点続きでも、最終的に逆転する可能性はある。

でもそれは、「きっとこの試合はダメだ」と諦めてしまった人には見ることのできない未来だ。

私は諦めたくない。

粘って粘って続けた先に見える景色を、見てみたいのだ。


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