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わたしが瞑想から受けとった恩恵

(注釈)
108・・・108日間の瞑想トレーニング
ISW・・・仏教研究者のMaiko Sahai先生が運営するコミュニティ
シーラ(戒)・・・ヨガ哲学でいうなら8支則と似ている。自分がどれだけはみ出ているかを測る為の物差し


振り返れば5ヶ月前。生後2ヶ月の三男の授乳中に
「108のトレーニングを受けたいです。」
と先生にドキドキしながらメッセージを送ったことを思い出す。

赤ちゃんが生まれたばかりなのに〝本気で瞑想を落とし込みたい方向け〟のフレーズに胸の奥の衝動を抑えられず、飛び出してしまったんだろうね、というところ。状況的にクレイジーだけどこんなに本気なんだから、きっと見えない何かが作用して、うまく収まるだろうと思っていた。

実は座るということは、次男を産んだ後に自然な流れで行き着いた。当時は初めての子育ての時ほど息詰まっておらず、どちらかというと

「何かモヤモヤする。」
「このままなんとなく生きていいのだろうか。」
「お母さんとしてではなく、一人の人間としてやりたいことあるよね。」

と自問自答する日々だった。

その時は何故かヨガで体を動かしてスッキリしたいというより、このモンモンとした気持ちを収めたい、うじゃうじゃ考えてしまうそのうじゃうじゃをどうにかしたい、といったマインドへの興味が強かった。

そしてたまたま友人が開催していた瞑想レッスンに参加し、開始5分で我慢できずに、たまらなくなった。首をストレッチしたり足を組みかえたり、全くじっとできなかったのだ。静かな空間が苦痛でしかなかったことが、かなりショックだった。だけどわたしの人生の大変化は、大体いつもショック=崩壊を経験して、でもこれだ!=再生というプロセスを繰り返してきた。だからこれも変化の良い兆しだと思った。

そこから自分にとっての弱点だと気づき、瞑想セッションや講座を受けるようになった。始めは5分しかじっと座れなかったところが、10分、20分と座れるようになってきた。内側の静寂さや包まれた感覚がたまらなく心地よかった。

「何もしないのに、なんでこんなに穏やかな気持ちになれるんだろう。」
「瞑想すれば穏やかな自分になれる。」

次第にそう思い込むようになっていった。何もしないの本質を理解することなく、瞑想すれば穏やかになるもんだと勘違いをしていたのだ。

確かに瞑想すると穏やかさに包まれる。うまくいけばそれが1日持続する。でもやっぱり日常のわちゃわちゃが続いたり、瞑想の時間を遮られる日が続くと、静寂な空間とのギャップでイライラが発動する。

なんか違うなんか違う。なんか惜しいなんか惜しい。

そう気づき始めた頃に仏教マインドフルネスに出会い、ISW(インナーセンスオブワンダー)に導かれていった。108日間本気で自分と向き合ってみたから、なんか違う、なんか惜しいの「何か」にちゃんと辿り着くことができた。

それは、シーラ(戒)とちゃんと向き合えてるかということ。

シーラ(戒)の根底にある本質を、勘違いしていた事に気がつけたことは本当に大きかった。振り返ってみても一番はじめにシーラ(戒)と向き合ったことで物差しができ、自分も周りの環境もいかにはみ出ている現状なのかを把握することができた。だから正直な気持ちに蓋をすることなく、全体がリラックスすることを道標に、少しずつ進んでいくことができたのだと思う。

日々の瞑想実践、日常生活に落とし込んでいくプロセスで、3歩進んで2歩下がっても、シーラ(戒)に還ったら大丈夫!と、どんどん腹に落ちていくから面白かった。いくらでも進んだらいい、いくらでも失敗すればいい、泣けばいい。焦らなくてもその積み重ねが安定に繋がっていくことを、ちょっぴりかじる事もできた。もちろんまだまだこれからではあるけれども。

そして瞑想で得たわたしにとっての最大のギフトは、穏やかさなんてどうでもよくなったこと。プンプンしてるから悪いとか、穏やかだから良いとか、そうやって分けるから自分がそうなってしまうのではないか、と思えるようになった。まあるくものごとを見ることに少しずつ近づけていることは、自分と正直に向き合ったことで得られた恩恵だ。

そうやって固い自分がポロポロ崩れ出して、公私共に抜け感が加速した。それには本当にびっくりする。抜け=隙間だと感じられるほどリラックスして過ごせている。迷惑かけたり、迷惑かけられるのが、なんだか心地いいのだ。

これからどんなリラックスした自分が、どんなまるい意識がニョキッと顔を出すのだろうか。まだ知らない、もしかしたら既に知っているのかもしれないけれど気づいていない、そんな世界に出会えることに、ドキドキするしワクワクしている。


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