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【日記】イクメンと呼ばないで

(1102文字)
ボクには娘がひとりいて、もう大学生なので子育ては一応、終了している。
終わってみると、やっぱり寂しい。
かといって、子育て中は大変だったかというとそんなことはなく、思う存分に子育てを楽しんだと思う。
赤ん坊の頃、ご飯を食べさせたり、おむつを替えたり、風呂に入れたりするのは全く苦痛ではなく好きだった。
自営業で時間的な自由が効くので、保育園や幼稚園の送り迎えもボクの役割だった。
次の休みの日はどこへ遊びに行こうかと、ボク自身も楽しみにしていたし、釣りにキャンプにスキーにと、娘だけではなく、娘の友達も一緒に連れて行って遊んだ。
よく、「休みは子供と遊んであげないと」なんて言葉を聞いたりするけど、「遊んであげる」という意識は全くなく、一緒に遊んでいるという感覚だった。
以前、そんな話をしていたら、
「今でいうところのイクメンだね」
と言われたことがある。
そしてなぜかその言葉に反感を覚えた。

もちろん、その人は褒め言葉としてイクメンを使ったはず。
だけど、何というか、イクメンという流行り言葉で、ボクの娘に対する気持ちが薄っぺらくされて片付けられたような気がしてしまった。

昔から、我が子を普通以上に可愛がる姿を「子煩悩」と言ったりする。
そういう意味では、ボクも子煩悩なのだろう。その言葉は受け止めることができる。
しかし「イクメン」という近頃の法則に則った省略カタカナ語には、どこかに軽薄さとコマーシャリズムを感じてしまう。そうやって経済のターゲットとされていくような。
この感覚はおそらく、ボクが広告業界の端くれにいるからだと思う。
さらに言うなら、デジタルなのかもしれない。
「イクメン」という枠にはめることで、深くその人を考える必要はなく、一つのジャンルに分類できる。
つまりボクは、他の人とまとめられることに反感を覚えたのだ。
ボクが自分の子供に対する気持ちはボクだけのもので、その気持ちからの行動をひとまとめにしないでくれと。
もちろん、悪意がないのは分かっているけど。

分類するのは人間の根源的な欲求だと思う。要は分類すると安心する。
だけど最近の新しい言葉には、さらに安易なニュアンスを感じることが多い。
なぜだろう?
何か、本質的なことが置き去りにされているような。
そして消費されていく。
「イクメン」は既に消費されてしまった感がある。
これはインターネットによる情報化社会が無関係ではないはず。
この先を書いていくと長くなりそうなので、今日はこの辺で。


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