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【連作短編】はざまの街で#3「大根の味噌汁」

(12,342文字)

港から、ボーゥと太く長い地響きのような汽笛が聞こえる。大きな船が入ったらしい。
志郎はいつものように、縁側の座椅子に腰掛けて本を読んでいたが、新緑が深まる季節の風に頬を撫でられ、いつの間にか眠ってしまっていた。
来栖は縁側の板の上に落ちた文庫本を拾い上げ、パンッと音を立てて志郎の頭を叩いた。
「いたっ」
「おはようさん」
「あ、来栖さん」
「あ、じゃねぇよ。お前、いつもここで寝てるけど、本当に本なんて読んでんのか?」
「読んでるよ」
志郎が叩かれた頭を撫でながら答える。
来栖は手にした本のタイトルを確認して、もう一度、志郎の頭を叩いた。
「2回も叩かないでよ」
「お前は、こんな長閑な縁側で、安部公房の箱男なんて捻くれた本を読んでんじゃないよ」
「捻くれたって言うけど、面白いよ」
「まぁ、良いや。今回はこの子だ。あら?おーい」
来栖が家の敷地の外に向かって声をかけると、若い女の子が、首だけでペコリと会釈をしながら入ってきた。
「安田麗菜さん、23歳」
「ゲ、歳言う?」
来栖が後ろを向いて麗菜を軽く睨むように見つめる。麗菜も一歩も引かずに睨み返す。
来栖は麗奈には何も言わずに志郎に向き直り、
「ちょっと厄介そうだけど、まぁ、頼むな」
と言って家の前の坂を降りて行った。

「厄介そうって、アイツ失礼じゃね?」
麗菜は志郎に断らず、縁側に腰掛けながら言った。
「まぁ、ああいう人なんで、気にしないで」
「別に気にしないけどさ」
それから麗菜は両腕を上げて、上半身をバタッと仰向けにして寝転び、気持ち良さそうに目を瞑った。
「あー、良いね、ここ。気に入ったよ」
「それは良かった」
「おばあちゃんちみたいで落ち着くわー」
わざと擦り切れを作ったデニムのミニスカートに、同じデニムのジャンパー。
白のキャミソールからヘソが見えている。
肩より長く伸ばした髪は金髪でウェーブがかかり、まるで絵を描いたような濃いメイク。
これがギャルか。
目を瞑っている麗菜を、志郎は初めて見る生き物のように観察する。
麗菜はそのまま眠ってしまったので、志郎はお腹にだけブランケットをかけて、自分はまた座椅子に寄りかかり、本を読みはじめた。

麗菜が目を覚ますと、座椅子に志郎の姿はなかった。空の色は物憂げな赤に染まり始めていて、麗菜は靴を脱ぐと、音がする台所を探した。
家の壁や天井を眺めながら台所に入ると、志郎がボウルを持って何かをコネていた。
「あ、起きた?」
「うん。なんか手伝う?」
意外な申し出に少しだけ驚いた表情を見せて、志郎は手招きをした。
「今日は餃子。一緒に包もう」
「餃子なんて包んだことないよ」
「良いよ、適当で。食べれば同じだから」
そう言いながら志郎は器用にヒダを作りながら包み始める。
「超、上手いじゃん。アタシがやったら笑うっしょ?」
「笑わないよ。最初は誰だって上手くはないからさ」
そう言う志郎の顔を少し睨みながら、麗菜は見よう見まねで包み始めようとしたが、何をどうするのか見当がつかない。
「良い?まずこうやって皮を手のひらに置いて、具を乗せて。少なめで良いよ」
志郎の説明を聞きながら真似をする。
「皮の半分に水をつけて、右の端をぐっとくっつけたら、こんな感じで閉じていくの」
そう言いながら、志郎は器用に包んでいくが、やはり麗菜は上手く包めない。
「ハハハ、良いよ、適当で。包まれてれば良いんだから」
「あー、ホラ、笑ったじゃん」
麗菜が拗ねた顔を見せる。
「いやいや、バカにして笑ったわけじゃないよ」
「じゃあ、なんで笑うのよ」
「んー、なんだろう」
志郎が少しだけ宙を眺めながら考える。
「可愛かったからかな」
「はぁ?なんかキモいんですけど」
そんな会話を交わしながら包んでいく。麗菜は少しずつコツを掴んで、上手く包めるようになっていった。
「アタシさ、こういうののコツ掴むの、上手いんだよね」
麗菜の拗ねていた顔が、自慢げな笑顔に変わった頃、100個の餃子が包み終わった。
「てかさ、ふたりでこんなに食えんの?」
「大丈夫。そろそろ助っ人が来るから」
その時、玄関の引き戸を開ける音が聞こえた。
「こんばんは」
声の主は郁美だった。郁美は台所に入ってくると、右手に持ったビニール袋を掲げて、
「ビール買ってきたよ」
と笑顔を見せた。
「ありがとう、郁美さん。来栖さんは?」
志郎がそう訊くと、郁美の後ろから来栖が、ニュッという感じで顔を覗かせた。
「いるよ」
「あ、あんたさっきの。何しにきたの?」
餃子の皮の粉で白くなった指を来栖に向けて、麗菜がちょっと強い口調で言う。
「おいおい、なんだよその言い方は。お前さんの歓迎会だよ」
歓迎会をしようと言ったのは来栖だった。
志郎はいつも、ここに来た人を静かに迎え入れている。リラックスしてここでの生活に馴染むようにと。疲れた魂は、こちらが両手を広げるように歓迎の気持ちを表すと、かえって壁を作ってしまうことが少なくない。
しかし、こいつは歓迎会でもしてやった方が良いと来栖は言った。その方がすぐに馴染むと。

「じゃ、麗菜ちゃんを歓迎して、カンパーイ」
郁美の掛け声で、志郎と来栖はビールの入ったグラスを掲げた。
少し遅れて麗菜も真似をするようにグラスを持ち上げる。そのグラスに3人のグラスが集まって、カチンと音を立てた。
「さて、焼くよー」
郁美が立ち上がり、テーブルの上のホットプレートに餃子を並べた。
「あのさ」
麗菜がビールをひと口飲んでから、郁美の隣に座っている来栖に向かって言った。
「郁美さんは、あんたの奥さんなの?」
「あんたはねえだろ。来栖って名前があるんだ」
「分かった。じゃ、もう一度聞くけど、郁美さんは来栖の奥さん?」
「呼び捨てかよ。まぁ、良いけど、答えはノーだ」
来栖が一杯目のビールを飲み干して、自分で缶からグラスにビールを注いだ。
「まぁ、私たちは仲間ってとこね」
郁美がホットプレートに蓋をして答える。ガラスの蓋の下では熱せられた水が勢い良く踊っている。
「アタシ、こんなところにいると実感ないんだけど、死んだんだよね?」
麗菜が自分の方を向いて質問したので、志郎は「そうだね」と答えた。
「じゃあさ」
麗菜がひとりずつ顔を見渡して、真面目な顔で言う。
「みんな幽霊?」
志郎と郁美は思わず吹き出して笑った。来栖だけが笑わずに答える。
「幽霊ってのは、生きてる世界で見るモンだろ?」
「だよね。ってことは幽霊じゃないよね」
「俺たちが幽霊だったら、お前も幽霊だろう」
「確かにね。実感ないなー」
麗菜が座ったまま、テーブルの脇に膝から下の片足を上げて、確認するようにじっと見る。
「足、あるもんね」
「深く考えなくても良いよ」
志郎が麗菜のグラスにビールを注ぎながら言う。
「はい、焼けたわよ〜」
郁美がホットプレートの蓋を開けると、湯気と同時に香ばしく焼けた餃子の匂いが立ち上った。
「アタシ、遠慮しないからね。アタシが包んだんだから」
麗奈は誰よりも早く、ホットプレートに箸を伸ばした。

「いやぁ、お腹いっぱいだわ。マジキツい」
麗菜が天井を見上げながらお腹をさする。
「空っぽの頭まで餃子が詰まったんじゃねぇか?」
来栖も同じ姿勢でお腹をさすりながら言う。
その憎まれ口を聞いて、
「失礼だなぁ。アタシこれでも高校は県内トップの進学校に合格してんだからね」
と、麗奈は自慢気に言ったあと「まぁ、入っただけだけどさ」と、自嘲気味に笑った。
「でもすごいじゃない。頭良いのね。私なんか全然勉強できなかったわよ」
そう言う郁美に「まぁ、ちょっと頑張っただけだよ」と、上を向いて目を瞑ったまま、麗菜が答える。
「子供の頃からママに目標決められてさ、塾行って、他の子に負けるのが悔しくて勉強してさ、周りはみんなバカばっかりと思ってたけど、高校に入ったらみんな頭の出来が違うっていうかさ、アタシがバカだって思い知らされたよ」
そしてまた、麗菜は自嘲気味に、寂しそうに笑った。
「それは違うんじゃねえかな」
黙って聞いていた来栖が口を開く。
「他の奴らにはその先の夢とか目標があったんだよ。次はどこの大学、そして将来はこうなりたいってな。お前は高校に合格するのが目標だった。頭の出来じゃねえ」
「あれ?慰めてる?でも、そうかもなぁ。夢とか目標なんてなかったもんなぁ」
その麗菜の言葉で会話が途切れ、古い柱時計の振り子の音が、コッコッと部屋に響いた。
早くも少しずつ自分のことを話し始めている麗奈の様子に、志郎は少しほっとした。

次の日、志郎は麗菜に付いてきてと言われ、商店街を歩いていた。
相変わらず、あちこちの店から「志郎ちゃん、元気か?」などと声をかけられる。
中には麗菜に声をかける店主もいたが、麗菜は気づかないふりをして歩いた。
「ふぅん、ショボい商店街だね」
特に目的があるわけじゃない。麗菜はただ少し賑やかなところに行きたかっただけだった。
そんな麗菜が、突然「え?」と少し驚いた声を上げて立ち止まった。視線の先には鞄屋のショーウィンドウがある。
「ケリーじゃん」
「え?何かあったの?」
「だから、エルメスのケリーってバッグだよ。志郎くん知らないの?」
麗菜が見つめる先には、シンプルなデザインのバッグがあったが、志郎には物を入れて運ぶ物としか思えなかった。
「アタシ、キャバクラで働いてたんだけどさ、クリスマスに5人にこのバッグをプレゼントさせたんだよね」
麗菜が志郎の方を向いて、ニヤッとしながら言った。
「なんで?同じバッグは5個も要らないよね?」
「バッカだなぁ、志郎くんは。一個だけ残して、あとは売るんだよ。で、プレゼントさせた男たちには、同伴の時に、あなたに買ってもらったバッグ〜とか言って見せるわけ」
へぇーと間延びしたような声で、志郎は感心した。
「アタシさ、要領が良いっていうか、分かっちゃうわけ、どうやったら売り上げ上がるか。だから、三軒で働いたけど、どこでもすぐにトップよ」
「へぇ、すごいね」
志郎はそう言って感心したが、麗菜は、
「でもどういう訳か、他の女たちからは嫌われちゃうのよね」
と少し寂しそうに笑った。
「そうだ、志郎くん。このバッグ、アタシにプレゼントしてよ」
冗談ぽく麗菜は言ったつもりだったが、志郎は真顔で「良いよ」と言って店の中に入って行った。
「え?いやいや、冗談じゃん」
慌てながら麗菜が店に入ると、志郎はすでに鞄屋の店主と話をしていて、ショーウィンドウのエルメスのケリーを指さしていた。
麗菜が黙って見ていると、店主は頷いて、奥から同じバッグの入った箱を持ってきて、紙のバッグに入れて志郎に手渡した。
「え?え?どういうこと?」
店を出て行く志郎に、追い縋るように質問しながらついて行く麗菜。
店を出ると、志郎は笑顔で、
「はい、プレゼント」
と言って、紙バッグを麗菜に差し出した。
麗菜は受け取りながら、ありがとうと呟くように言い、
「志郎くんって意外と金持ちなワケ?」
と聞いたが、予想外の答えが返ってきた。
「いや、金持ちじゃないよ。そもそもこの世界にお金はないからね」
「は?どういうこと?」
「だからそのままだよ。お金は存在しないの」
「じゃ、このバッグどうしたの?」
「くださいって言えば良いんだよ」
麗菜はにわかには信じられなかったが、確かに志郎がお金を渡した様子はなかった。

郁美の店で、ミルクティーを飲みながら、麗菜はテーブルの上に置いたエルメスのケリーを眺めて考え込んでいた。
向かい側でコーヒーを飲みながら、志郎はその麗菜の顔を眺めている。
郁美はカウンター席に座った来栖と一緒に、デッキの席にいるふたりを眺めている。
店の裏の森で、やっと上手になってきた鶯が、ホーホケキョと鳴いた。
「どうしたの?」
沈黙を破るように志郎が麗菜に訊いた。
「なんでアタシ、あんなにこのバッグを欲しがってたのかなって思って」
麗菜がバッグから目を離さずに答えた。
「良いバッグなんでしょ?デザインも綺麗だし」
「そりゃそうなんだけどさ。なんか上手く言えないけど、あの時みたいな魅力を感じないんだよねぇ」
志郎がそれに答えずにいると、
「お前にそのバッグの価値が分からねぇからだよ」
と、店内のカウンターから、来栖が少し大きな声で答えた。それから来栖はカウンターの席を立ってデッキの席にやってきた。
「どういうこと?」
「お前はそのバッグの価値を値段でしか計れないってことだよ。もうひとつ言えば、周りが羨ましがるから価値があると確信する。違うか?」
来栖はそう言って空いている椅子に座った。
「うーん、そうかもね」
麗菜が素直に肯定するのが、志郎には意外だった。
「お前さ、本当にやりたいこと、好きなことってなんだ?」
来栖が上半身を背もたれから離し、麗菜の方に近づいて訊いたが、麗菜は視線をバッグに置いたまま考えている。
「お前はさ、目標や価値を、いつも人が決めたものにしてきたんじゃねぇか?」
麗菜が視線を来栖に移す。その目を見ながら、来栖が続ける。
「学校や塾で一番を目指して、進学校を目標にして、キャバクラで働けば売り上げ一番を目指した。でもそれはみんな、他人が決めた目標だろ?」
いつになく来栖が他人に踏み込んでいくのを、志郎は少しハラハラした気持ちで見ていた。それは郁美も同じようで、心配そうにカウンターからこちらを見ている。そんな二人の心配をよそに、来栖は話を続ける。
「そのバッグだってそうだ。他人が羨ましがるから価値を感じる」
少しずつ、麗菜の目つきが据わっていく。志郎にもイライラしているのが見て取れた。
「何が言いたいわけ?」
来栖は自分を睨みつける麗菜の顔をじっと見つめると、少し笑いながら立ち上がり、麗菜のすぐそばに来た。そして視線の高さを合わせるように腰を落とすと、ぐっと顔を近づけて言った。
「いいか、思い出せ。今までの人生で、何も考えず、素直に楽しかった時間はなんだ?何をしていた時だ?」
「なんでよ」
「いいから思い出せ。本当に楽しかったことを思い出せ」
来栖の真剣な顔に気圧されたのか、麗菜は目を閉じて考え出した。その表情を三人は黙って見つめていた。
鶯が、もう一度鳴いた時、麗菜は何かを思い出して目を見開き、呟いた。
「お絵描き…」
「そうだ、いいぞ、話してみろ」

アタシが小学3年生になる時まで、近くにおばあちゃんが住んでたの。パパのママね。
学校から帰るとおばあちゃんの家に行くワケ。パパもママも働いてたからさ。
おばあちゃんは油絵が趣味でさ、縁側に小さなテーブルがあって、その上にリンゴとかブドウとか、果物を置いて描いてた。
アタシはその横でおばあちゃんの真似してクレヨンで描くわけ。
縁側にお絵かき帳を置いてね、ゴロゴロしながら描くの。
時々、クレヨンがお絵かき帳からはみ出して、縁側の床に描いちゃっても、おばあちゃん怒らなかった。
良いのよ、好きなように描きなさいって笑ってた。楽しかったなぁ。
晩ご飯も食べて帰ることが多かった。おばあちゃん、よく大根の味噌汁を作ってくれてさ、あれが美味しかったな。
小学3年生の6月だったかな、両親が離婚して、アタシはママと引っ越したの。それっきり。
6年生の時におばあちゃんが死んで、お葬式には参列した。
でも、悲しいとかあんまり感じなかった。それより、勉強しないと、時間がもったいないって思ってた。中学受験が近かったからさ。酷いよね。

麗菜はそこまで一気に話すと、寂しそうな笑顔を見せた。
「よし、行くぞ」
そう言って来栖が立ち上がった。
「どこに行くのよ?」
そう質問する麗菜に向かってニヤッと笑い、
「お絵描きだよ」
と言って立ち上がるように促した。
店がある郁美は置いて、3人は志郎のシトロエンに乗り込んだ。
「夏美さんのところ?」
志郎が助手席に座った来栖に訊くと、来栖は前を向いたまま、黙って頷いた。
走り出すシトロエンを、郁美は少し不安そうな顔で見送った。

車は郁美の店からさらに森の奥へと進んだ。
5分ほど走ると舗装路が終わり、砂利道になった。
ガタガタ揺れる車内で、麗菜が窓の外を眺めたまま、独り言のように話し始めた。
「アタシさ、高校辞めて、何もしたいことが無くて、これじゃダメだって分かってたんだよね。ママとも関係が悪くなるしさ」
「それで家出したのか」
来栖は助手席で前を向いたまま訊いた。
「そう。で、手っ取り早く、歳をごまかしてキャバクラ。ママに反抗してやりたかったしね」
「反抗ってのはな、相手がいないとできないんだよ」
「どういう意味?」
「反抗しているうちは、家出したってママから離れられねぇってことだよ」
車は木漏れ日の中の砂利道を走っていく。やがて道の両側に門番のように立った太いブナの木を過ぎると、白い壁に赤い屋根の小さな家が見えてきた。
「着きましたよ」
志郎が言うと、来栖は黙って頷いた。
車の音を聞いて、家庭菜園で作業をしていた女性が立ち上がった。スラッとした体型で、ピンクのつなぎには色とりどりの絵具が、模様のように広がっている。金色に染めた髪の一部は、さらに赤く染まっている。
その格好も、立ち姿も、とても60歳を超えているようには見えない。
車は砂煙を上げて家の前に止まり、まず助手席から来栖が降りて、その女性に向かって頭を下げた。
「夏美さん、ご無沙汰してます」
「来栖!アンタ、久しぶりじゃないの!」
夏美は、両手を広げながら来栖に近づいてくると、そのままハグをした。
「アンタ、ちっとも鼻っ面見せないでさ、何してたんだよ」
「ええ、まぁ、それなりに」
「あれ?志郎くんかい?アンタも久しぶりだね」
夏美はその答えを聞いているのかいないのか、運転席から降りた志郎を見て声をかけた。
「あれ?そっちのお嬢ちゃんは?」
夏美の満面の笑顔にも、麗奈は硬い表情を崩さなかった。
「ああ、麗菜っていうんだ。今、志郎のところに来てる」
代わりに来栖が答える。それから来栖は、志郎と麗奈に背を向けるように夏美を誘導し、ここに来た経緯を話し出した。
そのふたりの背中を見ながら、麗菜が志郎に質問する。
「誰なの?」
「ああ、夏美さん。絵描きさんだよ。絵を描くだけじゃないから、アーティストっていうのかな」
「ふうん」
来栖が一通り話し終えたらしく、夏美は2、3度頷くと、
「アンタたち、おいで!」
と大きく手招きをした。志郎は麗菜の背中を軽く押してふたりの方へ促した。
「よし、じゃ、絵を描こう!」
これから楽しいことが始まる、という期待に膨らんだ笑顔で夏美は言ったが、やはり麗奈の表情は硬いままだった。
それから夏美は扉を開けて三人を家の中に招き入れた。板敷の床に薄いブルーグリーンに塗られた板の内壁、シンプルな部屋の天井には、大きな天井扇がゆっくりと回っている。
夏美はその部屋を抜け、奥の部屋に進んでいく。そこはアトリエだった。
床から壁、天井まで全て真っ白で、部屋の真ん中には天井に届きそうな大きさの、真っ白なキャンバスが置かれている。そしてその後ろには、大小様々な大きさのキャンバスが立てかけられている。
大きなキャンバスの前には、赤、青、黄色、緑、黒など、色とりどりのペンキが入った鉄のバケツと、様々な大きさのブラシが置かれていた。
「おお、大きいですね」
志郎が言うと、夏美は腰に手を当て、真っ白なキャンバスを眺めながら、
「なんか、グワーンって大きな絵が描きたくなって用意したんだけどさ、アンタ、なんでも良いから描いてごらんよ」
そう言って、麗菜の顔を見つめた。
「無理だよ」
麗菜はムスッとした表情で答える。
「なんでも良いんだよ、考えなくて。どこに描いたって良い。さ、描いてごらん」
そう促されて、麗菜は壁塗りに使うようなサイズのブラシを手に取った。その様子を夏美はニコニコしながら眺めていたが、志郎は麗菜の苛立ちを感じて何か嫌な予感がした。
麗菜はブラシをゆっくりと黄色のペンキにつけると、夏美に「どこに描いても良いんだよね」と念を押すように言った。
「ああ、良いよ。キャンバスじゃなくて壁だって…」
夏美が言い終わる前に、麗菜は手にしたブラシで、勢いよく夏美の顔に黄色のペンキを塗った。
「おい、お前!」
そう言って詰め寄る来栖を、夏美は口を閉じたまま手で制した。
それから片目を開けて、大きなキャンバスの裏から、24センチ四方の2号のキャンバスを取り出すと、そこに自分の顔についたペンキをなすりつけた。
そして今度は、そのキャンバスを左手に持ったままブラシを手にして、赤いペンキをたっぷりと含ませ、麗菜に近づいていく。
何をしようとしているのか、全員が分かっていたが誰も動けなかった。
そして夏美は赤いペンキを麗菜の顔に塗ると、すぐに手にしたキャンバスにそのペンキをなすりつけた。
「ちょっと!何すんだよ!」
そう怒鳴る麗菜に、夏美は「作品だよ」と答えた。
「え?」
「アンタとアタシのコラボレーション作品だね」
「それのどこが作品だよ!」
さらに苛立つ麗菜に、夏美が笑いながら、
「良い作品じゃないか」
と手元のキャンバスを眺める。
「そんなの、誰が買うんだよ!」
「面白いこと言うね。誰かが買わないと作品じゃないのかい?」
夏美の言葉に、麗菜は黙ってしまった。
「良いかい、価値なんて自分で決めりゃ良いんだよ。この絵、見てみな」
夏美が麗菜の目の前にキャンバスを掲げる。
「勢いがあって、赤と黄色がぶつかり合ってる。アンタとアタシの苛立ちが良く表現されてると思わないかい?」
確かに、と志郎は頷いた。来栖は腕組みをしながら様子を見ている。夏美はその来栖の方に向かって言った。
「来栖、この子さ、置いていきなよ」
「ちょっと!何言ってんのよ!」
麗菜は反発したが、その声が聞こえていないかのように、来栖は「分かった」と答えた。
「夏美さん、迷惑かけるかもしれないけど、頼むわ」
「ちょっと、来栖!なに勝手なこと言ってんのよ」
慌てる麗菜の肩に志郎が手を置いて話し出した。
「麗菜ちゃん、しばらくここにいた方が良い。なんとなくその方が良いって、麗菜ちゃんも感じてるんじゃない?」
志郎の言う通りだった。
家出をしてから夜の世界に入り、いくつものうまい話や危ない話に乗らなかったのは、麗菜がそうした自分の勘を信じたからだった。
そして今は、このちょっとイラつかせる女に、何かを感じていた。
「じゃ、決まりだね。三食は用意する。アンタは好きにしていて良い。そして描きたくなったら描きな。それで良い」

夏美は朝昼晩と食事を用意し、時間は7時、12時、19時と決まっていた。その時間に食卓につくことだけがルールだった。二人の間にあまり会話はなかった。
夏美から必要なこと以外で話しかけてくることはなかった。
麗菜はしばらく夏美を眺めながら暮らした。
夏美は朝食を済ませると、ほとんど毎日、家庭菜園の手入れをした。それから庭のハンモックに揺られながら本を読む。
しかし突然、何かを思い出したようにハンモックを降り、何かを始める。
それは絵を描くことであったり、庭に置いてあるガラクタのような鉄屑を溶接して大きくすることであったり、丸太をなにやら彫刻することであったりした。
そして疲れると、ソファに横になって、そのまま眠ってしまう。
そんな夏美を見ていると、麗菜はなぜか懐かしい感じがするのが不思議だった。
油絵が趣味だったおばあちゃんは、こんなに自由奔放ではなかったし、なにしろ見た目が全然違う。もっと穏やかで優しかった。

4日目の夕食の時、麗菜は夏美に訊ねた。
「ねぇ、なんで夏美さんは絵を描くの?」
夏美は麗菜から質問してきたことに対する喜びを見せないように隠し、冷静を装って答えた。
「そりゃ、描きたいからだよ」
「答えになってないよ」
「なってるさ。喉が乾いたら水を飲むだろ?それと同じさ」
その言葉に麗菜が宙を見つめて考える。
「ってことはさ、心が乾いてるから水を飲ませてるってこと?」
「ほう」と軽く感嘆の声をあげて夏美は箸と茶碗を置いて考えだす。
「魂かな」
「魂?」
「そう。魂が求めるのよ。もっとくれって。だから水をあげてる。それがアタシにとっての絵を描くことかな」
「なんかちょっと分かる気がする」
そう言う麗菜の顔は、ここに来た時に比べて、素直な良い表情になっていると夏美は思った。
「多分、アンタの魂もアタシに似てるのさ。いつも乾いてる。だけど、水を飲むことを許されなかった」
「魂が乾いてるか…」
そう言うと、麗菜はまた宙を見つめて考え出した。
「そうだ、今日、倉庫で面白いもの見つけたんだけどさ」
そう言って、夏美は立ち上がり、サイドボードの上に置いてあった物を麗奈に示した。
「何それ?」
「ネズミ花火」
「ネズミ花火?」
「知らないのかい?」
麗菜は夏美に手招きされて庭に降りた。
夏美はライターを取り出すと、6の字のような形をしたネズミ花火の先端に火をつけ、麗菜の足元の少し先に放った。
ネズミ花火はシュルシュルと音を立て、火花を散らしながら回り始め、勢いよく回ったと思ったら、パンッと大きな音を立てて飛び散った。
その音に、麗菜は驚いて「キャッ」と声をあげ、その表情を見て夏美は笑った。
「ちょっと夏美さん!びっくりするじゃん」
「面白いでしょ。アンタもやってみな」
そう言うと夏美は残りのネズミ花火とライターを差し出した。
麗菜は恐る恐る火をつけて、夏美の足元に放った。夏美は「おっと」と言ってステップを踏むようにネズミ花火から逃げる。それを見て麗菜が声をあげて笑った。
「アンタ、良い顔して笑うじゃないの。笑うと可愛い顔してるよ」
「当たり前じゃん。どこの店でもナンバーワンだったんだからね」
ふたりは笑いながら、ネズミ花火から逃げるようにして踊った。

翌朝、麗菜が目を覚ましてリビングに行くと、懐かしい匂いがした。
「あら、おはよう」
懐かしい匂いの元は、夏美がそう言って持ってきた味噌汁にあった。
それは大根の味噌汁だった。
味噌汁を見つめたまま、麗菜はゆっくりと自分の椅子を引き、腰をかけた。
「あ、その大根ね、庭で採れたやつ。さ、食べよう。いただきます」
夏美はそう言って、味噌汁をひと口飲んだ。
麗菜もそれを真似するようにひと口すすった。口の中に、大根の甘みと旨味に香り、油揚げのコクが広がる。
それは、おばあちゃんが作ってくれた大根の味噌汁そっくりだった。
「どう?美味しいでしょ?今回の大根は上手くできたのよね」
夏美は食べながらそう言い、麗菜を見て動きが止まった。麗菜の目から、大粒の涙が、ひとつ、ふたつとこぼれ落ちている。
夏美は再び箸を動かし、麗菜のその様子に関心がないような表情で食事を続けた。
麗菜の目から落ちる涙の間隔は早まり、次第に押し殺すような声が聞こえてきた。
「良いんだよ、泣きな。好きなだけ泣きな」
食事を続けながら言う夏美の言葉を合図にするかのように、麗菜は堰を切ったように泣き出した。
「おばあちゃん、おばあちゃん、ごめんね、おばあちゃん、うう」
麗菜は肩を震わせて泣き続けた。
夏美が食べ終わる頃になって、麗菜はようやく泣き止んだ。
そして箸を手にして食事を始めながら夏美に言った。
「夏美さん、ツナギ貸してくれない?」
食事を終えた食器を手にして、台所に向かって立ち上がった夏美は、麗菜の方に向き直って、笑顔で大きく頷いた。

郁美の店に、夏美から電話がかかってきたのは、それから一週間後だった。
「来栖も志郎くんもいるんだろ?すぐに来いって言って」
三人は志郎のシトロエンに乗り込んだ。
「郁美さん、店は?」
「臨時休業よ」
車が夏美の家に到着すると、玄関の前で夏美が待ち構えていて、人差し指を立てて「しーッ」と良いながら、三人を招き入れた。
リビングを抜け、アトリエに入ると、真っ白だった部屋がカラフルに変わっていた。
大きなキャンバスの中心から、緑のツタのようなものが四方八方に伸び、さらに枝分かれして広がっている。それはキャンパスを飛び出し、床、壁、天井にまで伸びている。
そこに色とりどりの葉っぱのようなものが散らばり、隙間を埋めるように、不思議な模様が描かれている。
そして部屋の片隅には、床に四つん這いになって一心不乱に描き続けている、青いツナギを着た麗菜がいた。
麗菜は4人が入ってきたことに気がついていない。
「見て、あの子の表情」
夏美がそう言いたくなるように、麗菜は別人のように輝く目で、笑顔を浮かべたまま筆を動かしている。
「もう一週間、描き続けてる。お腹が空いたらアタシが持ってきたおにぎりを食べて、眠くなったら寝て、目が覚めたらまた描きだすのよ」
満足げな表情で夏美が言った。
「すごいパワーね」
郁美のその言葉に、全員が頷いた。
「本当は強いパワーを持った魂だったんだね」
志郎も麗菜を見たまま呟いた。
「来栖、指をこうしてごらん」
夏美は両手の人差し指と親指でL字をつくり、人差し指と親指をくっつけて、長方形を作った。それを見ながら来栖も真似をした。
「それで、あの子を入れて、アンタの好きなように切り取るんだよ」
来栖は片目を閉じて、指で作ったファインダーを覗いた。それは今まで見た中で、一番の作品だと思えた。
「それが、アンタとあの子の作品だよ」
「俺の?」
「そうさ。アンタがいなければあの子は描けなかった。二人の立派な作品だよ」
「俺とアイツの作品か」
来栖は指のファインダーを覗いたまま頷いた。
「タイトルは?」
郁美が来栖に聞いた。
「そうだな、再生、かな」
夏美も志郎も郁美も、麗菜を見たまま、優しい笑顔で頷いた。
「あ、来栖。来てたんだ」
ようやく麗菜が気がついて立ち上がった。来栖はまだ指のファインダーを崩さず、その中に麗菜を収めたまま「すごいじゃねぇか」と表情を崩した。
麗菜は照れ臭そうに笑うと、
「ありがとう」
と言い、そのまま少しずつ薄くなって消えていった。
麗菜が消えてからも、来栖は指のファインダーを崩さず、しばらくその中を眺めていて、頬に一筋の涙がこぼれたことにも気がつかなかった。
両脇から志郎と郁美が来栖の肩に手を置き、そんな来栖の労を無言でねぎらった。
「ありがとう、夏美さん」
ようやく両手を下ろし、夏美の方に向き直って、来栖は頭を下げた。
「何言ってんだよ。アタシも楽しかったよ」
「あれ?なんか良い匂いがする」
郁美が匂いの元を探すように、鼻をクンクンと鳴らす。
「ああ、大根の味噌汁だよ。あの子のリクエストでね。もうずっとだよ。残ってるけど食べるかい?」
4人はテーブルについて、それぞれの前に置かれたお椀を見つめた。地味な色の大根の味噌汁だ。
夏美がお椀を手にして、目の高さに掲げると、残る3人も真似をして掲げた。夏美が来栖に目配せをすると、来栖は頷いて口を開いた。
「麗菜、次は思うように生きろ」
木でできた漆塗りのお椀は、グラスのようにカチンと良い音を立てなかったが、4人は乾杯をして、麗菜の思い出の味を噛み締めるように味わった。

つづく

かなぁ


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