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作曲は教えられるのか。

新学期。何かを教わり始めたり、教え始めたりしている人もいると思う。作曲を教えることについて、noteでもいくつか記事を書いていたけど、具体的にやり方を書いてみようかと思う。旧ツイッターでも少しぼやいてみたけど、自分としては思うところがある。

作曲は教えられるのか

作曲は教えられないとよく言われるけど、それでもお金をもらってみんなレッスンをしている。それで実際どういう作曲のレッスンがあり得るのか、わたしなりに考えてみた。和声や対位法、アナリーゼやスタイルなどの技術面は教本があるし、教わってきたことをそのまま教えていける可能性もある。むしろ作曲のレッスンといえば、そういうものをイメージするかもしれないけど、それと音を書くことは別だと思う。知識が想像を助けてくれるから、それらの教本を勉強することは大事だけど、それだけだと作曲ができるようにならない。それで、一から作曲するときに何をやるのか、考えてみようと思った。

想像する筋肉を鍛える

まず教本や既にできあがった技術やフォームは、一(いち)の音楽と呼ぶ。これはゼロから音を考えることとは違う(ゼロの音楽については以下の記事参照)。

わたしが作曲し始めた時に感じたことは、音を想像することの難しさだった。一つの音楽を想像して書き留める、次の日になるとそれがなんだったか全く覚えていない。音を想像して、それをピアノで弾いてみる、弾いている間に想像したものがなんだったか忘れている。正確には弾いた音に耳がひっぱられて上書きされてしまう。それは土の中に大事なものを隠しておいた犬が、どこに埋めたのか忘れてしまうこととどことなく似ていて、確かにそこにあったものが一瞬で見えなくなる。自分でもそれが滑稽で悲しくて、だから最初やりたかったことをあきらめて、一からの音楽に頼ったりしながら書いた。出来上がったものを発表しても、自分の音楽を書いた気がしなかった。

想像したものと楽譜の見た目との乖離もよく起きていて、想像していたものはもっと豊かだったのに、楽譜に書いたものを見てみると、あまりに幼稚で泣きたくなった。あんなに素敵な音楽だったのに楽譜を見ると空白ばっかりで、隣で誰かが書いている楽譜みたいにかっこよくない。作曲家って大先生みたいに扱われてて、だからみんなが知らない小難しい楽譜を書かないといけないのに、自分が書いているものはどうして、こんなに情けないんだろうと。

かっこいい音楽書こうとして、一からの音楽に頼ってがちがちに武装して、言いたいことではないけれども、もう想像することはやめて、書ける範囲のことだけを書いて、なんとなく収まりが良い音楽が評価されたりすると、もう想像しなくていいんだ、これで良いのかと安堵と共に愕然としたことを覚えている。

それって良かったんだろうか。自分が書きたかったものってなんだったんだろうと想像することを取り戻すのに、今実はすごく時間がかかっている。楽譜の見た目とか評価とか置いておいて、頭の中で音を想像する筋肉をどうつけるのか。それはたぶん本当は作曲をし始める、ほんとに最初の最初にやっておいて良いことだったんだと思う。

一音を想像すること

ここのところ、一音を想像するということをやっている。音楽上の音に限らず、なんでも良い。「ありがとう」の一言でも良い。それを想像して言う。「ありがとう」という言葉が「あ・り・が・と」の四つの響きが単につらなっているものとして音声を流すんじゃなくて、「ありがとう」の身体になってそれをまず想像して、表現する。何かに驚いて「あ!」という時の「あ!」は、その瞬間に発せられるべき音である。身体全体が硬直して「あ!」と言う。きっと心臓もバクバクしている。表現されるものと表現する身体、そして最終的な音が共鳴している。例えばこういう感覚で、一音を想像していく。

日常の中での表現一つ一つ取ってみても、表現したいことと身体、想像と実際出てくるものがどう乖離しているのか、人によって違う。心も含めた身体がどこでも開放された状態になっていて、硬直することなく、想像と表現が結びついているかどうか。作曲のレッスンでも同じことをやる。

最初に作曲レッスンの空間がとてもリラックスした状態にあることが前提だ。それで生徒さんとの信頼関係(ここを作るのにも時間がかかる)の中で、想像の話をする。まず想像上で一音を思い浮かべてもらう。それがどういう顔つきか、想像を深化させるためのいくつか質問をしてみてもいい。どんな手触りであるとか、生きているのか死んでいるのか、ずっと見えない遠くにあるのか近くにあるのか。それらが出来てきたら、そこにつながる二音目を想像してもらう。

二音になると関係性が生まれる。一つ目の音が高かったのか低かったのか、長さという概念も生まれる。一つ目に比べて二つ目の長さはどうか。一つ目と同じように手触りとか遠さや近さ、温度とか匂いなんかも聞いてもいいかもしれない。

三音目を想像すると、そこにまた別の概念が生まれる。一音目と二音目、二音目と三音目の間の距離=音程であったり、その間の間=休符。いわゆる音楽を書く上での基礎的な要素がこの辺りで出てくる。この時点で、音程の概念とか休符をどう書くかとか、そういう知識は必要ない。言葉は選ぶ必要があるけど、なるべく通常の音楽用語じゃなくて、音と音は手を繋いでいるかとかそういう声かけで、想像の音を立体的にしていく。

四音目を想像するまでを一か月くらいかけて、やる。その時にそれらの音をどこかに書き留めたり、楽譜にしたり、楽器で出したりすることは絶対にしない。一か月音を聞かない生活はあり得ないけど、意識的に音を一回遮断してみてもいい(少なくとも作曲のレッスン上は)。その四音をとにかく頭の中に保持して、その一つ一つを想像の中だけで出来る限り豊かに、明確に見えるくらい持っていく。一か月でそれが出来たら、ようやくそれを書いたり発したりして表現していくフェーズに入る。

これから先続くであろう長い音楽人生の中で、想像することをゼロから考えることをゆっくりやるのは、全然無駄じゃない。同じことを最初は音ベースでやって、そのあとノイズベースでやってもいい。音を一音想像するより、ノイズを想像することのほうが多少難しい。それを頭の中でなんの助けもなくキープし続けるのは簡単ではない。数か月それにかけても良いと思う。特に受験で理論を叩き込まれてきたフレッシュマンには解毒が必要で、その凝り固まった筋肉を丁寧にほぐしていく必要がある。和声とか対位法とか他者のフォームやスタイルを必死に叩き込まれた子どもたちに、所謂これまで聞いてこなかった「現代の音楽」を聴かせたところで、謎の疑問が増殖するだけでなんの得にもならないし、その疑問がヘドロ状になって四年間終わったころにはすっかり疲弊しているなんて、もったいない(本来の柔らかな想像力を取り戻すのに1ゼメスターくらいかけても良いのではと思う)。

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