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ここんとこ漫画の話が続いているな。角が立ちやすい。

同人誌は好きだった。若い頃はコミケに行ったし、好きな小説の同人誌はいっぱい買って読んでいた。今だって別に嫌いじゃない。あれば読むし、綺麗だし、センスの塊だ。

ただ、自分で描くとなるとすごく苦手だった。まずセンスが無いしな!!

短い話も苦手だった。物語の作り方が全然違うんだぜ。同人誌でもいきなり100Pぐらいの長編を描き出す変人がいるけど、そういう人の漫画も大好きだったな。やはり私は長編が好きなのだろう。

だから、同人誌が嫌い、ってわけじゃ無いんだ。ただ、物語の作り方が全然違うよね、という話をしたいだけなの。

同人誌の物語は、綺麗な欠片なのだ。その欠片じたいはものすごい綺麗で価値がある。とにかく美しい。宝石みたいだ。ただ、全体性が無い。全体は原作が持っているから、全体性は無くていいのだ。

私がデビューした頃から、同人誌のような綺麗な欠片的な作品が増えた。

全体性が無いのだ。全体が無いまま、存在するためには、互いの同意ができるようなありがちな設定が必要になる。全体を持つ物語っていうのは、宝石ではなくって、川のような流れがあるんだ。宝石と川じゃ全然質が違う。同じ漫画なんだけど、そのくらい質が違うんだよ。

私は未だ宝石は苦手で、川ばかり作ってしまう。宝石が下手だ。

宝石を作る人はセンスがある。私は宝石が作れる人が羨ましかったんだけど、自分じゃできなかった。宝石を作る人は、川を作ることを嫌がるんだよね。なぜ嫌がるのかがわからなかった。作れるはずだ。センスもあるし、頭もいいからだ。宝石を散りばめた川は美しいはず。なぜ、川を作りたがらないの?と思っていた。川は全体性だ。全体性のある物語を、絶対作ろうとしないのはなぜなのか、と思っていた。

ずっと長いこと。

今、なんか似たようなもんに向き合っている感じがする。あの、全体性を頑なに嫌がる精神性に。そして今も私は、「なんで全体性を把握しようとしないんだ??」と言っている。宝石を作るか川を作るか、というのは、そういう精神性、だったのだろうか。

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