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弱さと向き合うとは。

最近、弱さと向き合っているなーと思うことがよくある。

それは、向き合っているといよりは、向き合わされていると言った方がいいのかもしれないけれど。

とてももどかしいなーという瞬間を積み重ねて、なんとかそこから脱して、なんとかそこから日々を過ごしているっていう感覚。


去年、いろいろなことが重なり心身ともに動けなくなって仕事を休むことになってしまった。

それから、休む時間を確保して自分なりに休養と準備のために過ごすことにした。

そしてなんとか日常を一般的に働いて、自分で生活を送れると客観的に判断してもらえる程度には回復した。


振り返っていくと、たかが数行でまとめることができる出来事だけれども、そんな簡単なものではないんだな〜と、様々待ち受けているだろうなということは予測がついていたはずでもそれを上回ってくる。

弱さという言葉を使って形を成す前の時点のものが、すでに露わになって目の前にどんどん積み上がっていくような、そんな感覚になる。


この前まで普通にできていたはずのことができなくて、それをやろうと思ったら前の感覚ではできないなんてことはしょっちゅうで、それはただ挨拶することから、プレゼンテーションまで幅は様々。

それは不調になった人みんなに当てはまるものでもないだろうし、むしろ休養したから前よりもパフォーマンスが上がっているなんて人もいるんだろうなと思う。

よく考えると、私の場合は切り替えることは以前と比べてかなり向上したと実感している。

それだけ、大きい責任を勝手に感じる必要もないと感じたかもしれないし、それはもしかしたら弱さをみせられるようになったから、常に気を張っている必要もないなと感じた結果かもしれない。

そう考えると、弱さと別に向き合う必要もなく、いい塩梅に運んでいってくれる一つの方法だと考えると気が楽になりそう。


一方で、周りから普通であることを求められることもある。

相手が思っている普通でいることは、私の弱さや、もちろん強さも、私自身を表すことを拒否されたような感覚になることがある。

ただこういう瞬間って「仕事」をする場ではなかなか頻繁に遭遇する。

普通にしてと直接言われたこともあって、すごいこと言われるなーなんて思ったけどまあレアケースで、会社や社会の普通が前提でいろんなことが進んでいく。

その中で弱さや、もしかしたら強さも必要がないのだろうなと感じる瞬間が多々ある。

みんながみんな、自分を表現していたら何かをするときに手間/時間がかかるから。

これが大きな要因になっているのではないかなと思っている。

そういうことを歓迎して、そんな社会をつくろうとしている会社や集まり、人もいるんだろうなと思いつつ。

組織というひとかたまりになった時、一人一人をどう扱うかの難しさはあるのだろうな。

そもそも扱うという言葉も適切ではないと思っている。

余談でになるけど、最近そんな経緯もあって組織というものに興味を持っている。


そんなちょっとずつ周りとチューニングして、どんな音を出せるのか調整していくではなく、どちらかというと雑音になりそうなものは消すような作業をしていると、それが当たり前になっていくような空気にどんどん浸っているような気がして。

それは、企画を考えているならそこで自分の色を出せばいいんじゃないという類のものとは少し違う気がしている。


そんな感覚になっている自分のいる場所では、本当は弱さじゃないかもしれないものを弱さと決めつけて向上させなければならなかったり、違和感というセンサーの働きをしてくれていたかもしれない弱さを見て見ぬ振りする作業をしているよう。


そんなとき、私にできることって結局弱さと言われているものやそう感じたものと向き合うことが今の私にできることの気がしてきた。これを書きながらとくに。

弱さと自分で決めたり、周りから言われたものとちょっと対話してみる、自分自身がそれを悪とか無駄と決めずに向き合うことができたら何か変わるのかな。


そんなこと考えずとも生きていけるし、楽しいことでしか交わることができない人たちとは残念ながらあるタイミングでご縁が切れていくような音が聞こえる瞬間があるけど、せっかくなら楽しくないことも、辛いことも、泣いてしまうぐらいしんどいことも、言葉にできないもどかしさも、頭が沸騰しそうなぐらいの怒りも、丸ごと全部愛おしいねって言い合える関係性をつくれたらなと思うのよね。(ただ愛おしいね詐欺はちょっと違う気がしていて、なんか違う気がするとか一方が無理をしている場合は成り立っていないと思うから注意が必要そう。)

私は楽しいときだけ盛り上がっているんじゃない関係性が豊かだなと思っているし、そんな風に思っている人たちとゆるやかに繋がりながら生きていけたら、弱さを嘆かなくてもいいんやろうな。


だから今、こうやって向き合おうとしているっていうことはよい兆しやと思っている。

少なくとも、こうやってわざわざ文章にしてアウトプットして、自分でできることをやっているのが証拠で。

一つずつ自分で基盤をつくっていきたい。

こんな世界に生きたいをつくっていきたい。

こんなことを話せる人たちが私の周りにはラッキーなことにいるわけで、もう少しわくわくすることを日々に取り入れていきたいね。

石の上にも三年と、桃栗三年柿八年はまた違う話だなと思うから、同じ三年でもその質をはき違えて時間を過ごしてしまわぬように自戒も込めて。



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